初めて聞く呼び声

市場が開くのは、月が雲に隠れてから夜明けまでの一夜だけだった。ノエミは音を売る通りで、百の声を聞いた。赤子の笑い、遠い港の号令、二度と鳴らない鐘。どれも硝子瓶の中で小さく震えていた。

探していた声は、青い瓶に入っていた。

「アシュの声です」

瓶に触れた瞬間、懐かしい低音が指先を叩いた。三か月前、崩れた劇場から彼女を庇って以来、アシュは一言も話せない。医師は喉に傷はないと言った。ただ声だけが、瓦礫の下に置き去りになったのだと。

店番の老女は瓶を灯りに透かした。

「声を買う代金は決まっている。その声に名を呼ばれた記憶を、すべて置いていくこと」

ノエミの中で、いくつもの「ノエミ」が振り向いた。

初めて同じ舞台に立った夜、台詞を忘れた彼女を袖から励ました声。喧嘩のあと、雨の路地を追ってきた声。眠れない朝方、隣の枕からこぼれた声。結婚を申し込む代わりに、震えながらただ名だけを呼んだ声。同じ二音なのに、嬉しいときは短く、心配するときは最後が低くなった。ノエミは顔を見なくても、その呼び方だけで彼の気持ちを知れた。

「一つではなく、全部ですか」

「声は、その人があなたを呼んだ回数でできているからね」

瓶を持ち帰れば、アシュはまた歌える。彼の役を待つ劇場も、彼自身も救われる。けれど彼がどんなふうに自分を呼んだか、ノエミだけが知らなくなる。

老女は小皿を置いた。記憶を出すと、真珠のような粒になるという。

ノエミは瓶を抱き、目を閉じた。一つずつ、呼び声を皿へ落とした。明るい粒、掠れた粒、怒った赤い粒。最後に残ったのは、瓦礫の下で血を吐きながら、それでも彼女の無事を確かめた一声だった。

それを手放せば、なぜ彼の声を取り戻したかったのかまで薄くなる気がした。

市場の外で、一番鶏が息を吸った。

ノエミは最後の粒を皿に置いた。

青い瓶の栓がひとりでに抜け、声が夜空へ飛んでいく。遠く、自宅の方角から、三か月ぶりの声が彼女の名を呼んだ。

ノエミは振り向いた。

胸は痛いほど喜んでいるのに、それが誰の、どんな呼び方だったのか分からなかった。