初対面の続き
午後七時になると、療養棟の電話が一度だけ鳴る。
「こんばんは。朗読ボランティアの澄佳です」
「初めまして」
「ええ。今日も初めまして」
女は毎晩、同じ挨拶をした。私は毎晩、それを妙な言い方だと思った。
彼女は本を読むより、私の話を聞きたがった。海辺の町で育ったこと。料理が苦手なくせに食堂を開いたこと。雨の日、停留所で赤い傘を持つ女性に一目惚れしたこと。
「その女性は、どんな人でした?」
「忘れました」
「では、好きだったところを一つだけ」
「笑う前に、左の眉が上がる」
「よく覚えていますね」
電話の向こうで、彼女が笑った。なぜか、その顔が見える気がした。
別の夜、澄佳は私の店の焦げたオムライスの話をした。新婚旅行で私が船酔いし、妻を甲板に置き去りにした話もした。誰にも話していないはずの、流産した子につける予定だった名前まで知っていた。
「看護師から聞いたのか」
「いいえ」
「私を調べたな」
「ずっと、そばにいましたから」
私は怖くなり、受話器を置いた。だが翌日の七時、また取ってしまった。
「あなたは誰なんだ」
「昔話をしましょう」
澄佳は、物忘れのひどい王様と、毎日知らない旅人として城を訪ねる王妃の話をした。王様は旅人に何度も恋をし、王妃はそのたび初対面になった。
「悲しい話だ」
「王妃は幸せでした。初恋を何度も見られたから」
「明日も続きを?」
「明日は、電話できません」
声の奥で、酸素を送る機械の音がした。
「遠くへ行くのか」
「ええ。だから、引き出しの青い封筒を開けてください」
中には、赤い傘を差した若い女と、隣で照れている私の写真があった。裏に震える字で書かれていた。
〈あなたへ。私の名前は澄佳。あなたの妻です。忘れてもかまいません。電話なら、私は何度でも初対面になれます〉
看護師が入ってきた。写真を見て、静かに頭を下げた。
「奥様は向かいの緩和病棟にいらしたんです。面会すると、あなたが知らない人だと怯えるので、先月から内線でお話しを。今夜、たった今……」
最後まで聞かなくても分かった。
翌日の午後七時、電話は鳴らなかった。
それでも私は受話器を取り、誰もいない向こう側へ言った。
「初めまして、澄佳」
妻の顔も、結婚した年月も思い出せない。
なのにその名前だけは、別れのように胸を痛くした。