北公の白手袋
冬季舞踏会の中央で、ビアンカラ・トルヴェンの婚約者クェンリク・ソレノは、裂けた銀色のドレスを掲げた。
「私の従妹の衣装へ腐食薬を塗ったな。嫉妬深い女との婚約は、今夜限りで破棄する!」
裂け目は肩から裾まで走り、客たちは息をのんだ。ビアンカラは涙をぬぐう代わりに、扇の内側から一枚の保険証書を抜いた。
「その衣装には、仕立屋組合の損害保険が掛けられています。第四項をご覧ください」
証書を燭台へかざす。魔法文字が青く浮かび、〈腐食事故の補償には、着用前の薬品検査を要する〉と読めた。さらに検査欄には、今夜の開宴一時間前、クェンリク自身が「異常なし」と署名している。
「私が衣装へ近づいたのは開宴後です。検査後に保管していたのは、あなたでしたね」
証書は証拠を一つだけ示した。署名後に生地へ触れた者の手形。その形は、クェンリクの右手と重なった。
この保険を提案したのはビアンカラだった。華やかな夜会服の陰で、職人が高価な生地の損害を自腹で負わされる慣習を変えるためだ。クェンリクは『女の細かい遊び』と笑って署名だけした。その細かい一項が今、彼の仕掛けを逃さない。裂かれた衣装の持ち主まで彼女を睨んでいたが、ビアンカラは弁明を求めなかった。自分を信じなかった者の同情で、真実の価値を薄める必要はない。
彼は手袋を隠したが、もう遅い。
「これは演出だ。君を試しただけだ。婚約は続けてやる」
「試験に合格した褒美が、あなたの妻になることですか?」
ビアンカラの声に、会場の北側から低い笑いが落ちた。白手袋の男、北境公オルシード・グレイヴァが一人だけ進み出る。
「北では、濡れ衣に耐えた者ではなく、濡れ衣を切り裂いた者を重んじる」
彼はビアンカラを庇う位置には立たなかった。クェンリクとの間を空け、どちらへ進むか選べる道を残した。
「北境の冬宮で、契約監査官の席が空いている。爵位目当てでなく、仕事として来てほしい」
クェンリクが彼女の袖へ手を伸ばす。
「行くな。冗談だった!」
ビアンカラは裂けたドレスを彼へ返し、きっぱり背を向けた。そして仕事を申し出た北境公の白手袋の手を、自分から取った。