十二時四十分の空席
葉山こよりの弁当が、机の引き出しから消えた。
小さな編集プロダクションでは、昼休みの時間がばらばらだ。冷蔵庫に入れるほどでもない鮭おにぎりを、こよりは保冷袋ごと一番下の引き出しに入れていた。
入社した頃は、誰かの弁当の匂いがすると自然に椅子が寄った。最近は全員が画面を見たまま食べ、校正紙をめくる音だけが昼の合図になっていた。こよりも、それが大人の職場なのだと思っていた。
正午から席を立ったのは、向かいの沖田、隣の久慈、清掃の桑原だけだ。
沖田は近所のカレー屋へ行った。
桑原はごみ袋を替えただけ。
久慈は「知らない」と言いながら、なぜか空になった給湯室の箸立てを見つめていた。
こよりは腹を立てるより先に、妙だと思った。いつも会議室にある椅子が三脚とも消えている。給湯室からは割り箸が二膳なくなっている。そして予約表には、十二時四十分から会議室を使う人の欄に、鉛筆で小さく「K」とだけ書かれていた。
久慈の名字もKだが、こよりの名前もKで始まる。
会議室の扉を開けると、窓際に三脚の椅子が並び、中央の机にこよりの弁当が置かれていた。隣には沖田のカレーと、久慈のサンドイッチ。桑原が花瓶代わりの紙コップに、掃除中に折れたポトスの枝を挿している。
「盗難事件の主犯は?」
こよりが聞くと、久慈が手を挙げた。
半年前、入社したばかりのこよりは、昼に誘われたとき「静かな時間が好きなので」と断った。本当は締切続きで、会話をする余裕がなかっただけだ。それ以来、誰も誘わなくなった。
昨日、異動の噂を聞いた久慈は、ようやく気づいたらしい。
「あのとき、放っておいてほしいって意味だと思った。ずっと」
「異動は隣のチームです」
「それでも、席は遠くなるから」
正面の一脚だけが空いていた。こよりのための席だった。
「勝手に弁当を動かしたことは、怒っていいよ」
久慈は割り箸を差し出した。
「でも一回だけ、断り直してもらおうと思って」
こよりは座り、鮭おにぎりを割った。湯気はもう出なかったが、海苔の匂いはした。
「今日は、静かじゃなくていいです」
久慈が笑い、沖田がカレーの蓋を開けた。空席は、もうなかった。