十秒の声

久慈蓮司は毎朝、洗面台の鏡に向かって十秒だけ話す。

「私は顧客の意図を正確に把握し、冷静に対応できます」

採用音声AI《TEN》の練習モードが、抑揚、ためらい、誠実度を採点する。履歴書も面接もなく、企業へ送れるのは未加工の声を十秒だけ。声こそ本人そのものだ、というのが制度の決まりだった。顔や学歴を見ない公平な選考として導入されてから、面接室は街からほとんど消えた。

その朝、榎木律花は九度目の録音を消した。喉頭の手術から半年。首元の小さな発声器に指を当てると、金属的だが明瞭な声が出る。

「今の、七秒で詰まった」

「内容は完璧だよ」

「内容を見ない会社だから困ってるの」

彼女が受けるのは、医療機器メーカーの相談窓口だった。手術前は病院の受付で働き、声を失ってからは同じ器具を使う人の相談会に毎週通っている。不安で電話を切れない老人にも、律花は文字と呼吸で最後まで付き合った。資格も経験もある。蓮司は、律花ほど向いている人はいないと思っていた。

《TEN》の広告では、透明な人影が笑っていた。

――声に宿る、あなたの本当だけを採用します。

締切まで一分。律花は目を閉じ、録音ボタンを押した。

「声を失った方にも、伝わる方法を一緒に探します」

十秒後、白い円が回った。

〈人間音声率 63.2%〉

〈入力者を候補者として確認できません〉

〈不採用〉

律花は首の器具から指を離した。冷蔵庫のモーター音だけが残った。

「仕方ないね。機械には、機械の声が分かるんでしょ」

蓮司はサポートを開き、抗議の音声を吹き込んだ。

「彼女はここにいる。声だって彼女のものだ。聞こうとしないそっちが――」

途中で画面が明るくなった。

〈久慈蓮司様〉

〈自然発声、感情安定性、顧客保護傾向を確認〉

〈同職種への採用を決定しました〉

応募していない蓮司の声を、AIは十秒の候補者データとして受理していた。律花が三年かけて得た資格欄は空白のまま、彼の「怒り」は顧客保護能力として高く評価されている。

律花が、音の出ない笑い方をした。

蓮司は〈受諾〉の隣にある小さな〈辞退〉を押した。彼女の画面にはまだ、〈入力者が存在しません〉と表示されていた。