午前二時の名乗り

東雲孝哉は、亡父の家を売るため一週間だけ戻っていた。二十九歳。固定電話は解約済みのはずだったが、台所の壁には黒い受話器が残り、コードは床下へ消えていた。

家族の連絡ノートには、祖父、父、叔父の筆跡で同じ文が書き継がれている。

《午前二時に電話が鳴っても、名字を名乗ってはいけない》

父の欄だけ、その下に「相手が先に知っていても」と追記があった。

電話料金の古い明細では、毎月一度だけ午前二時の着信料が請求されていた。発信元はすべて東雲家の過去の住所で、取り壊された家や墓地まで含まれている。父が失踪した月だけ、通話時間は二十九年になっていた。

初日の二時、電話は三回鳴って切れた。二日目は留守番電話が動き、子どもの声を録音した。

『東雲さんのお宅ですか。順番が来ました』

孝哉は音声をスマートフォンへ移し、ノイズ除去アプリにかけた。背後には大勢が名字を名乗る声が重なっていた。どの声も最後に「受け取りました」と言われ、途切れている。

三日目、売却を担当する不動産会社から、本人確認の電話が二時ちょうどに来る予定だった。スマートフォンは圏外になり、代わりに固定電話が鳴った。仕事の電話が転送されたのだと思い、孝哉は一度だけ受話器を取った。

「はい、東雲です」

相手は何も尋ねず、紙をめくる音を立てた。

『では、東雲はそちらに置いていきます』

通話が切れると、玄関で誰かが靴を脱いだ。廊下を歩く足音は父と同じ癖で、右足だけ畳を擦った。孝哉は朝まで台所から動けなかった。

九時、不動産会社のアプリに契約書が届いた。売主欄は「東雲家」、物件欄は父の家ではなく、孝哉が東京で借りているワンルームになっている。退去日は昨夜二時。転居先はこの実家だった。

訂正しようと本人確認を押すと、スマートフォンの電話番号が書き換わった。連絡先の自分の名前は《前の東雲孝哉》になっていた。

固定電話が鳴った。着信表示は、孝哉自身の携帯番号だった。

自動応答が先に受話器を取り、孝哉の声で名乗った。

『はい、東雲です』

台所の外から、誰かが「受け取りました」と答えた。