午前四時のスタンピング

妻を亡くしてから、奈賀野駿平はパン屋のシャッターを上げなくなった。

店の奥には、妻がかわいがっていた灰色のウサギ「酵母」がいる。餌と掃除だけはしたが、話しかけることはなかった。声を出すと、妻が返事をしない事実まで聞こえてしまう。

ところが毎朝四時になると、酵母が後ろ脚で床を鳴らした。

どん。どん。どん。

最初の三日は無視した。四日目は毛布をかぶった。五日目、駿平は腹を立て、ケージの前へ行った。

「まだ暗い。飯には早い」

酵母は店の厨房を向いたまま、もう一度床を蹴った。

妻が生きていたころ、午前四時は仕込みの時刻だった。駿平が寝坊すると、妻は酵母のケージを開け、厨房まで走らせた。酵母は粉袋をかじろうとし、駿平が慌てて飛び起きる。妻は毎回、計画どおりという顔で笑った。

駿平は厨房の明かりをつけた。

台には、妻が最後に書いた仕込み表が残っていた。食パン二十、丸パン三十、あんパン十五。その下に小さく、〈駿平が無理なら、一個でよし〉とある。

「一個で店になるか」

言いながら、粉を量った。

生地をこね始めると、酵母は静かになった。発酵を待つ間、駿平は久しぶりに妻の椅子へ座った。空席は埋まらなかったが、オーブンの熱で部屋の冷たさが少しだけほどけた。

焼けた丸パンを店先へ置くと、登校中の少女が足を止めた。

「今日、開くの?」

「一個しかない」

「じゃあ、一番乗りだ」

少女は百円玉を置き、半分に割ったパンの片方を駿平へ返した。

「店主も食べないと、明日が焼けないよ」

パンの匂いを覚えていた町の人たちが、次の日から少しずつ戻ってきた。妻が産後の家へ届けたパン、受験の朝に焦がしたパン、喧嘩した夫婦へ二つに割って渡したパン。客は買い物より先に、妻の話を一つ置いていった。駿平は返事の代わりに、翌朝の生地を少し増やした。

翌朝四時、また床が鳴った。

駿平は丸パンを二個焼いた。次の日は三個。ひと月後、看板には〈朝だけ。売り切れたら妻のせい〉と書いた。

酵母は今も四時に三回鳴らす。

目覚ましではない。

今日も一個でいいから、生きている者のぶんを焼け、と命じる音だ。