単品の値札

 雨森望は、時計店「鳴鐘堂」のガラスケースで、一本だけ残った腕時計を見つけた。

 黒い文字盤に細い金の針。革帯は深い緑で、裏蓋には何も刻まれていない。値札の隅には薄く〈PAIR〉と印刷され、その上から赤鉛筆で一本線が引かれていた。

「もう片方は売れたんですか」

 店主は答えず、ケースの鍵を開けた。時計を白い布へ置き、値札を裏返す。裏には〈二本組・記念箱付き〉と古い字で書かれている。店主は鋏でその部分を切り落とし、残った紙へ「単品」と書き直した。

 望のスマートフォンには、不動産会社からの確認が届いていた。婚約者と住む部屋の契約期限が今夜までだった。駅から近く、日当たりもよく、家賃も払える。迷う理由を説明しようとすると、どれも小さく聞こえる。ただ、内見で彼が当然のように選んだ仕事部屋と、望にあてがわれた寝室の隅を思い出すたび、胸の中の椅子が一脚足りない気がした。

 彼を嫌いではない。だからこそ、違和感を小さく折り畳んだまま新居へ持ち込むことが、誠実には思えなかった。

 店主は望の手首を紙尺で測り、時計を留めた。帯の穴は真ん中ではなく、端から二つ目がちょうどよかった。文字盤は大きすぎず、小さすぎない。

「箱は、こちらで?」

 店主が出したのは、二本分の窪みがある長い箱だった。望が黙っていると、店主は中の仕切りを外した。片側の空洞を厚い紙で埋め、緑の布を一枚かぶせる。最初から一本用だったような箱になった。

 会計票の商品名欄にも、「ペアウォッチ片割れ」ではなく「腕時計 一点」と打たれた。

 望は決済画面を開いた。不動産会社ではなく、婚約者とのメッセージを選ぶ。

〈今日の契約はしない。あなたと別れたいわけじゃない。でも、一緒に住む前に決め直したい〉

 送信ボタンを押すまで、時計の秒針が十二目盛り進んだ。

 店主はその間、箱へ細い紐を一本だけ掛けていた。結び目は中央から少し外れていたが、直さなかった。

 望は腕時計を箱へ戻さず、そのまま店を出た。手首にあるのは、何かを失った残りではなく、一本で時間を刻む品だった。