原状回復できない箇所
【玄関扉・傷一か所】
宮代伊緒が鍵を落とした初日、脇坂智久は「先が思いやられる」と笑った。
八年後、最後の段ボールを運び出した彼は、同じ傷を指でなぞった。
「修理代、半分ずつね」
「離婚しても、そこは平等なんだ」
「離婚するから平等なの」
二人の荷物は、白いテープと黄色いテープで別々の住所へ送られた。白は伊緒、黄色は智久。どちらにも貼られなかった物だけが、空になった部屋に残っている。
【床・へこみ二か所】
重い食卓を置いていた跡だった。
昇進を祝った夜も、互いの帰宅を待たずに冷えた夕食を食べた夜も、二人はそこで向かい合った。
「食卓、持っていかないの」
伊緒が訊く。
「一人には大きい」
「私にも」
「じゃあ処分か」
「そうだね」
好きな物を分けるより、二人で好きだった物を捨てるほうが難しかった。
【壁紙・変色あり】
壁にかけていた結婚写真を外すと、四角い白さが残った。
智久が言う。
「写真、伊緒が持って」
「どうして」
「俺が持つと、戻りたくなる」
「私は戻りたくならないと思ってる?」
「そういう顔をしてる」
伊緒は写真を伏せた。
二人は今も好きだった。けれど、好きだという一言を仲直りの代わりに使い、謝るべきことを何度も曖昧にした。片方が我慢するたび「愛しているから」と説明し、ついには愛そのものが、息苦しさの名前になった。
退去立会いの担当者から、遅れると連絡が来た。
空室に、二人きりの時間が余った。
智久が先に言った。
「今でも好きだよ」
伊緒は目を閉じた。ずっと欲しかった言葉なのに、いま聞くと、鍵を返した部屋の合鍵のようだった。
「私も好き」
「それでも行く?」
「好きだから戻る、を繰り返したくない」
「うん」
「この告白は、復縁のお願いじゃないの。私たちが別れるのは、愛してなかったからじゃないって、ちゃんと覚えておくため」
智久は泣きそうな顔で笑った。
「最後だけ、話し合いが上手だな」
「遅すぎたね」
「八年くらい」
担当者が到着し、壁と床を確認した。
「きれいですね。ほとんど原状どおりです」
二人は同時に「はい」と答えた。
部屋を出ると、伊緒は右へ、智久は左へ歩いた。
原状回復できなかった箇所は、報告書のどこにも書かれない。
好きだと告げ合った二人の心だけが、もう一緒に暮らす前の形へは戻らなかった。