取り戻す箱

駅前の露店で、手のひらほどの黒い箱を買った。

蓋に、ただ一行だけ刻まれていた。

「失くした物の名を呼べば戻る。ただし、今ある大切な物が一つ消える」

妻を亡くした男は、冗談だと思いながら、

「結婚指輪」

と呼んだ。

箱の中に、病院で失くした指輪が現れた。

同時に、机の上から万年筆が消えた。

娘が就職祝いにくれた物だった。

男は驚いたが、指輪の方が大切だと思った。

次に、妻の青いスカーフを呼んだ。

箱には布の匂いまで戻った。

代わりに、孫が描いた似顔絵が壁から消えた。

箱は、失くした物を正確に返した。

妻の料理帳。

旅先の切符。

最期の留守番電話を保存した古い端末。

使うたび、現在の暮らしから何かが消えた。

娘との写真。

孫が作った紙の花。

近所の人からもらった鉢植え。

男はそれらが大切だったと、なくなってから知った。

しかし、妻の物を取り戻す手は止まらなかった。

過去を一つ戻せば、妻のいない部屋が少し埋まる気がした。

ある日、箱へ尋ねた。

「妻が最後に私へ書いた手紙」

蓋が開き、白い封筒が現れた。

男は喜び、すぐに部屋を見回した。

何が消えたのか分からない。

夕方、娘が孫を連れてきた。

孫は男を見るなり、母親の後ろへ隠れた。

「おじいちゃんでしょう」

娘が言っても、孫は首を振る。

男のことを覚えていなかった。

消えたのは物ではなく、孫の中にあった祖父との時間だった。

一緒に植えた朝顔も、動物園で迷子になった日も、全部なくなっていた。

男は震える手で手紙を開いた。

妻の字は一行だけだった。

「私の物より、これから増える物を大切にしてください」

男は黒い箱へ、取り戻した物を一つずつ戻した。

「結婚指輪」

「青いスカーフ」

「料理帳」

箱は受け取ったが、消えた現在は戻さなかった。

最後に手紙も入れようとして、やめた。

教訓として残したかったのではない。

妻の言葉を守るには、手紙すら手放すべきだと思ったからだ。

封筒を燃やし、灰を庭へまいた。

孫との記憶は戻らない。

男は初対面からやり直した。

好きな菓子を尋ね、名前を何度も呼び間違え、また朝顔を植えた。

秋、孫が新しい似顔絵をくれた。

男は黒い箱を開かなかった。

失くさないよう額へ入れるのでもなく、冷蔵庫へ磁石で留めた。

毎日少しずつ汚れ、端が丸まった。

大切な物は、完全に保存された物ではない。

今いる人と、なくなるまで使い続けられる物だった。