名前のない答案

「答案には、必ず名前を書いてください」

算術教師サフィラ・メイヴは、同じ注意を試験のたびに繰り返した。採点は厳しく、赤字は小さく、褒め言葉はさらに小さい。放課後の教室で答案を束ねる姿は、銀髪でなければ誰の記憶にも残らないほど地味だった。

居残りの少年ダリオは、解き直しをしながら彼女の赤ペンの音を聞いていた。

そのとき、答案の一枚から文字が消えた。次いで隣の答案から生徒の名が抜け落ち、紙の上に集まった黒い文字が、人の形に立ち上がる。

無名喰らい。名前を奪った相手を世界の記憶から消す魔族だった。

『サフィラ・メイヴではない。本当の名を知っているぞ。魔王を討った――』

「試験中の私語は減点です」

赤ペンが一度、紙を叩いた。

魔族の胸に赤い丸がついた。たった一つの円なのに、逃げ道も転移先もすべて囲われていた。サフィラが丸の外に小さく「零点」と書くと、無名喰らいは声を上げる暇もなく平たい染みになり、答案の余白へ吸い込まれた。

ダリオに見えたのは、教師が一問を採点した程度の動きだけだった。

サフィラはその答案を細かく破り、暖炉へ入れた。消えた名前は元の紙へ戻り、教室の時計も一秒しか進んでいない。灰を火掻き棒で崩したあと、彼女は何事もなかったように採点を再開した。

「先生、あいつは先生を知ってた」

「採点者の個人情報は不要です」

「でも、魔王を討ったって……」

サフィラは解き直し用紙を彼の前へ滑らせた。そこには空欄の氏名欄がある。少年は震える手で自分の名を書いた。

ダリオは、自分の名前が紙に残るだけで胸が熱くなるのを初めて知った。英雄譚では真名が力になるという。けれどサフィラが守ったのは勇者の名ではなく、教室にいる一人一人の名前だった。答案の端には、難問の途中式へ小さな丸がついている。怪物を封じたものと同じ赤い円だが、こちらは「ここまでは正しい」という印だった。

教師はほんの少しだけ笑い、赤ペンの蓋を閉じた。

「答案には、必ず名前を書いてください」