名前を呼ぶ練習
藤代が転校してきた朝、担任は名字を三回間違えた。
「ふじしろさん」
「とうだい、です」
「え、藤で『とう』?」
「はい」
「珍しいな。じゃあ、とうしろさん」
「とうだいです」
教室に笑いが起きた。藤代も笑った。前の学校でも、病院でも、宅配便でも同じだった。訂正することには慣れている。
二時間目の休み、隣の席の男子がノートの端へ大きく書いた。
『藤代』
その下に、ひらがなで『とうだい』。
「練習?」
「先生がまた間違えそうだから」
「君まで間違えてるよ。『ふじしろ』」
「えっ」
「さっき逆に言っただけ」
男子は口を開けたまま固まった。
藤代は笑いすぎて机へ伏せた。朝から張りつめていたものが、そこでやっとほどけた。
昼休みになると、その男子は懲りずにクラス全員を巻き込んだ。
「呼び方を統一します。せーの」
三十人が、ばらばらの声で名字を呼ぶ。
「ふじしろ」
「とうだい」
「ふじよ」
「転校生」
正解が一番少なかった。
「ひどい学校だね」と藤代が言う。
「明日までに覚える」
「明日もいると思ってる?」
「転校初日に転校するなよ」
その言い方が妙におかしかった。明日もいる。それは当たり前のはずなのに、藤代には少し新鮮だった。これまでの引っ越しでは、着いた瞬間から次の別れを数える癖がついていた。
放課後、黒板の隅に名字が残っていた。
ふりがなは全部消され、漢字だけ。誰かがチョークで何度もなぞったらしく、白く太くなっている。
藤代は消さずに帰った。
帰り道、スマートフォンのメモへクラス全員の名字を書いてみた。まだ半分も思い出せない。それでも、明日ならもう一度訊けると思った。
翌朝、教室へ入ると、全員がこちらを見た。
「せーの」
今度は、三十人の声がそろった。
「ふじしろ!」
担任だけが「とうだいさん、おはよう」と言った。
藤代はまた机へ伏せて笑った。
新しい学校で最初に覚えたのは、みんなの名前ではない。
自分の名前が、間違えられながら少しずつ、この教室の呼び方になっていく音だった。