名前を言わない家
古い家には、妙な決まりがあった。
七日間、誰にも名前を呼ばれなかった住人は、家の中から忘れられる。
家族は迷信だと思っていた。
長男が家を出るまでは。
父と激しく喧嘩し、長男は、
「二度と帰らない」
と言った。
父も、
「最初から息子などいなかった」
と返した。
一週間、誰も長男の名を口にしなかった。
八日目、食卓の椅子が一脚減っていた。
写真立てには両親と娘だけ。
二階の一室は、昔から物置だったことになっている。
娘だけが、何か足りない気がした。
洗面所に男物の歯ブラシ跡があり、柱の身長線に自分より高い傷がある。
母へ聞いても、
「お父さんのでしょう」
と言う。
父はその傷を見て、なぜか目をそらした。
冬、押し入れから古いタオルが出てきた。
端に、母の字で一つの名前が縫われている。
娘が読み上げた瞬間、家中の時計が一斉に鳴った。
母が皿を落とした。
父は壁へ手をついた。
二人の顔に、七日分ではなく何年分もの記憶が戻ってきた。
兄がいた。
妹の自転車を直し、母の荷物を持ち、父の仕事を継がないと言って出ていった兄。
「どうして、今まで」
娘が泣くと、父が答えた。
「名前を言わなかった」
その声には、怒りより恐れがあった。
自分が呼べば、帰ってこない息子を待つことになるから、忘れる方を選んだのだ。
電話番号は変わっていた。
住所も分からない。
家族は兄の名前を毎日一度ずつ口にした。
朝食の前。
帰宅時。
誰かが言い忘れれば、娘が柱の傷を指して呼んだ。
一年後、母宛ての葉書が届いた。
差出人は、その名前だった。
「妹の成人式の写真を見ました。元気そうでよかった」
戻るとは書かれていない。
父は葉書を何度も読み、夕食で初めて息子の好物を作った。
味噌を入れすぎ、皆で文句を言った。
次の葉書には、
「春なら、一日だけ帰れます」
とあった。
帰宅の日、家族は玄関へ並んだ。
父は名前を呼べず、口だけが動いた。
娘が代わりに大きな声で呼んだ。
扉が開く。
兄は少し年を取り、他人のような顔をしていた。
それでも家は忘れなかった。
七日どころか、毎日その名を聞いていたからだ。
家族は元通りにはならなかった。
けれど名前を消さないことだけは、全員で守った。