名前を買わない魔導士

競売台の猫獣人には、名前がなかった。

 正確には、名を呼ばれるたび首の呪印が痛むため、誰も呼ばなくなったのだ。

「古代語を読める希少個体! 三百枚から!」

 客席がざわめく。痩せた耳が伏せられた。彼女の足元には所有契約が一枚。落札者の名を書けば、胸の呪印がその者の紋章へ変わる。

「五百枚」

 最後列の魔導士オルフェが杖も上げずに言った。

 金額は一度で決まり、会場は静まった。

 控室へ移ると、競売人が羽根ペンを差し出す。

「こちらへお名前を。今日から完全服従です」

「書くのは私の名前ではない」

 オルフェは契約書の中央へ、古代語で一文字だけ記した。

 否。

 紙面から黒い鎖が噴き出した。猫獣人の胸を縛っていた呪印が激しく明滅する。競売人が顔色を変えた。

「何をした! 落札者が所有者欄を拒めば、代金だけ失うぞ!」

「構わない。私は彼女を買ったのではない。この契約書が二度と使われない権利を買った」

 オルフェが指を鳴らす。五百枚分の金貨に刻まれた魔力が一斉に燃え、契約の術式だけを焼いた。

 猫獣人の胸から黒い紋が剥がれ、煤になって床へ落ちる。競売人が隠し杖を抜いたが、彼女は反射的に身を縮めただけだった。命令を待つ癖が、まだ体に残っている。

「逃げてもいい」

 オルフェは扉を開けた。

「私を殴っても、代金を返さなくてもいい。名乗らなくてもいい」

 彼女は外へ走った。石畳を裸足で駆け、夜の雑踏へ消えた。

 オルフェが宿へ戻ったのは、それから一刻後だった。部屋の前に小さな影が座っている。猫獣人は市場で拾ったらしい古い辞書を抱えていた。

「古代語を、もっと読みたい」

「教師なら紹介できる」

「あなたがいい」

 彼女は迷い、胸に何も浮かばないことを確かめてから言った。

「わたしの名前は、ネイラにする。昔の名前ではなく、今ここで選んだ名前」

 オルフェは初めて彼女を見た時と同じように、杖も上げずに頭を下げた。

「はじめまして、ネイラ」

 呼ばれても痛みは来ない。

 猫の耳がゆっくり起き上がり、新しい名前が、誰の所有物でもない彼女のものになった。