味噌汁の湯気の父
父が亡くなってから、娘は味噌汁を作らなくなった。
最後に喧嘩したのが、味噌の濃さだったからだ。
病気で食が細くなった父へ薄味を出すと、
「病人扱いするな」
と椀を押し返した。
娘は、
「じゃあ自分で作れば」
と言って帰った。その夜、父は倒れ、意識を戻さなかった。
一周忌の朝、残った味噌を捨てようとして、なぜか鍋に湯を沸かした。
出汁を入れ、味噌を溶く。
湯気の向こうに父が立っていた。
「薄い」
第一声がそれだった。
父は、味噌汁から湯気が立っている間だけ台所にいられた。
娘は火を強めた。
「謝りに来たの?」
「腹が減った」
「幽霊が?」
「お前の味噌汁なら、幽霊でも痩せる」
腹が立ち、同時に懐かしかった。
娘は椀を二つ出した。
父の前へ置いても、汁は減らない。
父は匂いだけを吸い込み、
「病院の前の日、悪かった」
と小さく言った。
娘は返事をしなかった。
欲しかった謝罪なのに、一年遅い。
「私も悪かったって言わせたい?」
「言わせたい」
「最低」
「親だからな」
湯気が細くなる。
娘は鍋を温め直した。
父は、薄味が嫌だったのではないと話した。娘が薬の表を作り、冷蔵庫を整理し、次の通院まで決めるたび、自分の暮らしが娘の管理表へ移されるのが怖かった。
「助けてもらってるくせに、腹が立った」
「言えばよかったでしょう」
「弱った人間は、正しい言葉から先に失くす」
娘は椀を握った。
自分も同じだった。心配だった、と言えず、指示ばかりした。父が拒むほど、さらに世話を増やした。
「最後に言ったこと、聞こえてた?」
「自分で作れ、か」
「うん」
「だから来た。作り方を忘れた」
娘は笑って泣いた。
「味噌を溶くだけ」
「その前の、誰かと食べるところ」
湯気がもう戻らなくなった。
火を強くしても、父の足元から透けていく。
娘は父の椀へ、自分の汁を半分移した。
「濃くなった?」
「少し」
「また文句?」
「これくらいでいい」
父は椀を持てない手で、食卓の向かいを指した。
「そこ、空けすぎるな」
消えたあと、娘は一人で二杯ぶん食べた。
塩辛くて、途中で湯を足した。
翌週から、近所で一人暮らしをする叔母を夕食へ誘った。毎回ではない。断られる日もある。
味噌汁の濃さは、食べる人へ聞くようにした。
父の椀はしまった。
空席を守るためではなく、今来る人の椀を置く場所を空けるために。