呼吸を数えない夜

岩瀬千帆は図書館の返却期限を三日過ぎていた。借りたのは犬の介護についての本だったが、もう続きを読む必要はない。獣医は午後、ノアの心臓が次に大きく乱れたら戻らないかもしれないと言った。夜は静かに、とも。

千帆は本をトートバッグへ入れ、玄関でリードを手にした。

図書館は閉まっている。返却ポストまでなら、ゆっくり歩いて十五分。ノアの今の足なら、たぶん倍。今夜が最後の散歩になることを、言葉にしないまま二人で外へ出た。

横断歩道で、ノアは最初の白線の前に座った。小さいころから、青になるまで白いところへ前脚を出さない犬だった。千帆が教えたのではない。たまたま褒めたら、頑固に守るようになった。

信号が青になる。ノアは白線だけを踏もうとして、黒いアスファルトの上で一度よろめいた。千帆はリードを短く持ったが、抱き上げなかった。

「大丈夫。次、白」

白、黒、白。後ろから自転車のベルが鳴った。千帆は振り向かず、ノアの歩幅で渡った。点滅が始まるころ、最後の白線へ四本の足がそろった。

図書館のガラス扉は暗く、返却ポストだけが黄色い灯りに照らされていた。千帆は本を取り出した。表紙には、穏やかな老犬の写真。読みかけのページには付箋が残っている。

外そうとして、やめた。付箋には自分の字で「眠れない夜は、呼吸を数えない」と書いてあった。

ノアは植え込みの土を嗅ぎ、咳を一つした。千帆は本の背を撫で、投入口へ差し込んだ。厚い本は途中でつかえた。両手で少し押すと、奥へ滑り、鈍い音を立てた。

ポストの脇には返却時刻を知らせる紙が貼られていた。次の回収は朝九時。千帆は三日分の延滞がこれで止まることを確認し、バッグの底に残った貸出票を二つに折った。ノアは黄色い灯りの輪の外で、風に動く草だけを見ていた。

貸出票の裏には、最初に借りた日の雨染みが残っていた。千帆はそれもバッグへ戻し、ノアの首輪の金具を指で確かめた。

返却ポストのふたが戻る。千帆は空になったトートバッグを肩へ掛け直した。ノアが白線のない帰り道へ、先に鼻を向けた。