四小節ぶんの勇気
体育館の袖で、鳴滝琴葉はギターを抱えたまま動かなかった。
幕の向こうでは、軽音部の名前を呼ぶ声と、床を踏み鳴らす音が混ざっていた。文化祭最後のバンド。三年生の私たちにとっても最後だった。
「弦、切れた?」
ドラムスティックを持った黒瀬航平が聞く。
「切れてない」
「ピック落とした?」
「持ってる」
「じゃあ何」
琴葉は客席の方を見たまま、小さく言った。
「最初の音が出なかったらどうしよう」
何百回も合わせた曲だった。イントロは琴葉のギター一本。たった四小節のあと、ベースとドラムと歌が入る。失敗しても誰も死なない。それでも、最後だと思うと、最初の一音が崖みたいに遠くなる。
黒瀬は何も励まさなかった。
代わりにスティックの先で、琴葉のギターケースを四回叩いた。
カッ、カッ、カッ、カッ。
「次、琴葉」
「ドラムはまだでしょ」
「今のは演奏じゃない。呼吸」
幕が上がった。
照明に照らされると、客席は顔のない暗闇になった。琴葉はマイクの前へ進み、左手をネックに置いた。それでも指が震えているのが、後ろからでも分かった。
黒瀬はハイハットを閉じたまま、スティックで縁を四回鳴らした。
カッ、カッ、カッ、カッ。
予定にない音だった。
琴葉が振り返る。黒瀬は「次」と口を動かす。
ギターが鳴った。
一音目は少し硬く、二音目は震え、三音目で客席のざわめきが消え、四音目にはいつもの琴葉の音になった。
そこから先は、あっという間だった。サビで腕が上がり、間奏で名前を呼ばれ、最後のコードが体育館の天井に残った。
拍手の中、琴葉はマイクを外して振り返った。
「黒瀬」
「何」
「四小節、貸しね」
「利子つけて返して」
「じゃあ卒業まで、毎朝四回叩いて起こしてあげる」
客席には聞こえない声だったのに、黒瀬の耳だけが赤くなった。
アンコールの手拍子が始まる。
琴葉は笑って、もう一度ギターを構えた。
「次、私?」
黒瀬はスティックを上げた。
「次も琴葉」
四つの音が鳴る前から、今度はもう、彼女の指は震えていなかった。