在庫ゼロの棚卸し

「数字は合っています。倉庫には八万着あります」

二度目にその台詞を聞いた瞬間、五十嵐杏奈は手の中のバーコード端末を握り直した。

月末の棚卸し。白い蛍光灯。埃っぽい段ボールの匂い。仕入部長の矢代が、前の人生と同じ紺色のバインダーを胸に抱えている。

前回、アパレル会社《リュミエ》の社長だった杏奈は彼を信じた。帳簿上の八万着を担保に運転資金を借り、翌週の監査で在庫が半分以上存在しないと発覚した。矢代は架空会社へ商品を横流しして失踪。融資は即時回収、社員の給与口座は凍結され、ブランドは春物を一着も出せずに破綻した。

そして今、杏奈は破産申立書へ署名したはずの手で、棚卸し端末を持っている。

「そう。なら、奥の防火扉を開けて」

矢代の眉がわずかに動いた。

「そちらは返品予定品です。数には入っていません」

「前は私もそう答えられて引き下がった。でも今日は、私が一箱ずつ数える」

杏奈は端末を扉へかざした。警告音。管理権限が変更されている。変更者は矢代、時刻は午前五時十二分。通常なら倉庫主任と社長の二人が必要な操作を、彼は退職者のIDまで使って通していた。

「社長が現場で時間を潰す必要は――」

「ない在庫で会社を潰すより安いわ」

予備鍵で扉を開けると、棚は空だった。あるのは剥がされた配送伝票と、競合会社宛ての送り状だけ。矢代が出口へ向いたが、そこには杏奈が呼んでおいた監査役と警備員が立っていた。

杏奈は紺色のバインダーを取り上げる。中から、架空倉庫の受領印が何十枚も滑り落ちた。

その場で在庫担保融資を取り下げ、実在分だけを再計上する。資金は苦しくなる。それでも、嘘を土台にした一億円より、正しい四千二百万円のほうが会社を生かす。

午前十一時。前の人生なら銀行から「期限の利益喪失予定」のメールが届いた時刻だった。

端末が鳴る。

『実地在庫確認完了。融資審査を通常枠へ切り替えます』

さらに物流担当の新人が、空の棚を見回して言った。

「社長、これなら秋物を置く場所、最初からありますね」

前の人生で泣きながら閉めた倉庫の灯りが、その日初めて、開店準備の光に見えた。