地下一階の回覧板

 萱津景慈が住む古いアパートには、地下室がない。

 それなのに梅雨の夜、玄関の郵便受けへ回覧板が入っていた。

〈地下一階居住者よりお願い〉

〈午後十時以降は、足音と排水音をお控えください〉

〈確認後、署名して次の部屋へ回してください〉

 署名欄には、B一〇一からB一〇六までの部屋番号と、六人の名前が並んでいた。紙は湿り、泥と鉄錆の匂いがした。

 景慈は管理会社へ電話した。

「悪質ないたずらですね。この建物に地下はありません」

 担当者は笑ったあと、少し声を落とした。

「ただ、その紙には署名しないでください。こちらで回収します」

 理由を尋ねても答えなかった。

 翌朝、回覧板は消えていた。

 ところが夜になると、今度は食卓の上に置かれていた。鍵も窓も閉まっている。

 景慈は署名欄の名前を検索した。

 一人目は、二十年前に一〇三号室で孤独死した老人。

 二人目は、屋上から転落した大学生。

 三人目は、火災で逃げ遅れた母親。

 残りも、時代は違うが全員このアパートで亡くなっていた。

 古い図書館で建築図面を探すと、建設当初には確かに地下一階があった。管理人家族用の六部屋。豪雨で浸水し、住人六人が死亡したあと、階段ごとコンクリートで塞がれたという。

 回覧板の六人は、その事故の犠牲者ではなかった。

 地下が消えたあとに亡くなった人ばかりだった。

 景慈は怖くなり、紙を破ろうとした。

 だが濡れた紙は布のように伸びるだけで切れない。

 腹立ちまぎれに、自分の名前を書いた。

〈一〇二号室 萱津景慈 確認済み〉

 その瞬間、床下から拍手のような音が六回した。

 翌朝、郵便受けの表札がなくなっていた。

 鍵は自室の扉に合わず、管理会社へ電話すると、「一〇二号室は半年間空室です」と言われた。

 室内では知らない夫婦が、引っ越しの荷物をほどいていた。

 景慈が扉を叩いても、二人には聞こえない。

 廊下の突き当たりに、昨日までなかった下向きの階段があった。

 壁には新しい案内板が掛かっている。

〈地下一階 B一〇一~B一〇七〉

 景慈の手には、いつの間にか回覧板が戻っていた。

 署名欄の最後に、赤い字が増えている。

〈B一〇七 萱津景慈〉

〈新しい方は、回覧板を持ってお入りください〉

 階段の下で、六人分の足音が待っていた。