声の小さい通訳
鵜飼澄乃は、声が小さい。
だから迫水支社長は、海外企業との買収交渉から彼女を外した。
「通訳は場を支配できなきゃ意味がない。君は単語帳だけ読んでいればいい」
代わりに席についたのは、発音が派手で、冗談のうまい営業主任だった。
澄乃は壁際で契約書の差分を確認した。声を張らないのは自信がないからではない。話者の語尾、ためらい、言い直しまで消さずに渡すため、必要な言葉だけを選ぶ癖がついていた。話し合いは順調に進み、迫水は何度も満足そうにうなずいた。
昼前、相手企業の代表レベッカ・ホルトが、保証条項を読み上げた。
営業主任は明るく訳す。
「製品に問題があった場合、当社は合理的な範囲で対応する、とのことです」
澄乃は顔を上げた。
原文には、合理的な範囲という言葉がない。前夜に届いた修正版から、たった三文字分の否定表現が消えていた。署名すれば、過去十年分の不具合まで無制限に負担することになる。
澄乃は迫水へメモを滑らせた。
迫水は見もせず、机の下へ落とした。
「余計な口を挟むな」
小声だったが、レベッカには聞こえたらしい。
彼女はペンを置き、英語で澄乃に尋ねた。
「あなたは、今の条項をどう訳しますか」
会議室が静まる。
澄乃は短く、正確に訳した。声量は変わらないのに、法務責任者も取締役も一言も聞き漏らさなかった。さらに、昨夜二十三時十四分に差し替えられた箇所と、その変更が日本側の取締役会承認を無効にする可能性まで説明した。
迫水の笑顔が固まった。
「彼女は補助です。正式な通訳ではありません」
レベッカは首をかしげた。
「補助? 三年前、国際仲裁で弊社を救った逐次通訳者と同じ名前ですが」
澄乃は答えなかった。
守秘義務があったからだ。
レベッカは自社の法務責任者に確認し、契約書を閉じた。
「この条項は当社側の誤りです。訂正します。そして、今後の交渉条件を一つ追加します」
迫水が身を乗り出す。
レベッカは壁際の椅子を、自分の正面へ引いた。
「主任通訳が鵜飼澄乃でない会議には、弊社は出席しません」