夜明け前の香水瓶
アデライドは、朝日より先に起きる暮らしをやめた。
王宮香粧院にいた頃は、舞踏会のたびに徹夜だった。銀鼠色の制服は香料油で斑になり、手袋の指先には酸で開いた穴がある。退職後も、鏡型端末には『王妃様の気分が変わった』『公爵令嬢が薔薇を嫌だと言った』という緊急連絡が未読のまま積み上がっていた。
今の彼女の工房が働くのは、夜だけだ。
屋根の月光板が光を集めると、棚の香料瓶から一滴ずつ雫が浮く。注文札に書かれた好みと体温、苦手な匂いを読み取り、雫は空中で混ざり合う。月桂樹の精が瓶へ栓をし、夜明け前の配達梟が町へ運ぶ。アデライド本人は、夕方に新しい原液を棚へ足すだけでいい。
その晩も、寝台に入る前に金色の文字が窓へ浮かんだ。
《本日十二瓶販売。調香印使用料を口座へ移しました》
一瓶の値段は宮廷品の十分の一。それでも毎晩売れれば、パンと家賃と好きな本には困らない。
そこで鏡型端末が鳴った。元院長の顔が映り、挨拶もなく言った。
『明日の祝宴に使う香りが決まらない。君の鼻が必要だ。馬車を向かわせる』
昔なら、アデライドは寝間着のまま荷造りをしただろう。誰かの機嫌を損ねることが、国家の危機のように思えたからだ。
「馬車は要りません」
『聞こえなかったのか。王族の祝宴だぞ』
「祝宴は緊急事態ではありません。それに私の朝は、もう売り物ではないのです」
鏡を伏せると、工房の奥で最後の香水瓶に栓が落ちた。売上鈴が控えめに鳴り、すぐ静かになる。
工房へ移った最初の月、アデライドは毎朝五時に目を覚ました。誰かの靴音が廊下を走り、扉が乱暴に開く気がしたからだ。だが聞こえるのは配達梟の羽音だけで、注文主たちは完成品を受け取れば満足した。彼女が寝癖のままか、朝食を昼に食べたかなど誰も問わない。香りだけを売り、自分の時間までは瓶に詰めない。その当たり前が、どんな高価な香油より贅沢だった。
アデライドは遮光幕をきっちり閉め、枕へラベンダーを一枝差した。明日の朝日を見ないためではない。見たい時刻まで眠るために、彼女は毛布を顎まで引き上げた。