失恋、返品不可
砺波真澄は、別れた恋人の記憶を売った。
三年分を丸ごとではない。彼女の寝顔、初めて手をつないだ駅、最後に投げつけられた「あなたは私を見ていない」という言葉。その三点を削除すれば、査定額は家賃二か月分になった。
処置後、真澄は驚くほど楽になった。部屋に残った青いマグカップを見ても、誰の物か分からない。駅前の花屋を通っても胸が痛まない。友人たちは「立ち直るのが早い」と褒めた。
半年後、取引先の説明会で、一人の女性に目を奪われた。話すとき相手の目をまっすぐ見る癖と、緊張すると親指の爪をなぞる仕草が妙に懐かしかった。
彼女は真澄の顔を見るなり、説明資料を取り落とした。真澄の胸は痛まなかった。ただ、知らない部屋の鍵を渡されたような不安があった。
「覚えてないの?」
その声で、売らなかった記憶がわずかに疼いた。喧嘩の理由も、謝れなかった夜もない。ただ、自分がこの人を傷つけたという輪郭だけが残っていた。
真澄は正直に、記憶を売ったことを話した。彼女は笑わなかった。
「じゃあ、今度はうまくいくかもね。あなたは私を嫌いになったことも忘れたんだから」
二人は再び会うようになった。真澄は前より優しく振る舞った。彼女の好みを一から聞き、誕生日を端末に登録し、相づちの回数まで気を配った。それでも三か月目、彼女は同じ言葉を言った。
「あなたは私を見ていない」
真澄はようやく気づいた。消したのは痛みだけではない。なぜ別れたのかという、自分を変えるための傷だった。
記憶市場へ買い戻しを申し込むと、商品はすでに転売されていた。購入者は失恋体験を収集する脚本AIで、返品不可だった。
真澄は彼女にもう一度だけ会い、今度は復縁を求めずに謝った。何をしたか思い出せないから、彼女の言葉を途中で遮らず、最初から最後まで聞いた。
別れ際、彼女は青いマグカップを返した。
真澄はそれを捨てなかった。痛みが戻らなくても、同じ過ちを忘れないための、空っぽの記憶として棚に置いた。