契約満了の付箋

茉白の社員証が使えるのは、午後六時までだった。

 契約満了の挨拶を終え、机から最後の付箋を剥がしていると、圭悟が段ボールを抱えて現れた。

「駅まで持つよ」

「結構です。お世話になりました」

「その言い方、今日だけで十二回目」

 壁の時計は五時四十七分。あと十三分で、茉白は部外者になる。

 圭悟は彼女を正社員にするため、何度も人事へ掛け合った。予算が通らず、結果は変わらなかった。それでも彼が残業して推薦書を書いたことを、茉白は知っている。

 だから好きだと言えなかった。契約を守ろうとしてくれた人へ気持ちを返せば、親切への代金みたいになる。それだけが嫌だった。

 入社初日、派遣社員用の椅子だけ高さが合わず、茉白は一日中肩をすくめていた。翌朝、圭悟が倉庫から別の椅子を運んだ。「働きやすくするのは特別扱いじゃない」と言った。その言葉に何度も救われたぶん、恋を持ち出せば全部を特別扱いへ変えてしまいそうだった。机の端には、正社員だけに配られた新しい社章の跡が四角く残っている。茉白はそこへ私物を置かなかった。

「送別会、来なかったね」

「主役が欠席してどうする」

「お世話になりましたって言う会、苦手なので」

 二度目に言うと、圭悟は段ボールを床へ置いた。

「俺がしたこと、迷惑だった?」

「違います」

「じゃあ、どうしてずっと避けたの」

「期待させたくなかったから」

「誰に?」

 茉白は答えず、引き出しの奥から黄色い付箋を一枚見つけた。初日に圭悟が貼ったものだ。〈分からないことは、分からないままで帰らない〉。三年たっても、端が少し丸まっただけだった。

 五時五十七分。総務から、退館を促す放送が流れる。

「お世話になりました」

 三度目を口にしてから、茉白は首を振った。

「それで終わらせるの、やめます」

 黄色い付箋の裏へ、自分の個人番号を書く。

「仕事でしてもらったことは、仕事として返せません。でも、これから先まで返さないとは言ってません」

 社員証を返却箱へ落とし、付箋だけを圭悟の手帳に貼った。

 六時を過ぎても、彼はそれを剥がさなかった。