妻の時給

磐城森倫久は、苗場谷深冬が家計簿を開くたび笑った。

「一円単位を数えても収入にはならない。お前の時給はゼロだろ。誰のおかげで飯が食えてるんだ」

深冬は電卓を閉じた。

結婚前は経理職だった。出産で退職してからも、簿記と税務の勉強だけは続けていた。倫久はそれを「再就職ごっこ」と呼んだ。

春、倫久の勤務先で経理システムの入れ替えが決まり、外部コンサルタントの説明会が開かれた。倫久は営業課長として出席し、壇上に現れた深冬を見て声を失った。

彼女は半年前、在宅の記帳代行から始めた会社を法人化していた。小規模事業者向けに、請求、給与、資金繰りを一つにまとめるサービスを開発し、すでに三百社と契約している。口コミで広がり、大手銀行が出資を決めたばかりだった。

司会者が紹介する。

「苗場谷代表の会社へ、当社の経理業務を全面委託します。契約額は年間一億二千万円です」

倫久は部下の前で言った。

「妻です。家で俺が教えた数字の知識が役に立ったんでしょう」

深冬は画面を切り替えた。

そこには倫久の営業課が出した不正確な見積書が並んでいた。経費率を読み違え、利益が出ない契約を三件も受注している。深冬の会社が監査し、赤字拡大を防いだのだ。

「あなたが教えてくれたのは、家計費を一日遅れただけで責める方法だけです」

説明会後、深冬は自宅ではなく銀行の応接室で倫久と向き合った。離婚届、婚姻費用の精算書、自分名義の住宅ローン承認書を並べる。

「会社が軌道に乗ったから強気になったのか?」

「違う。強気にならなくても生きられる準備が終わったの」

深冬の役員報酬は倫久の月収の四倍。家事代行と保育サービスも自分で契約済みだった。

銀行員が新居の融資実行を告げ、会社から年間契約の電子署名完了通知が届く。

深冬は離婚届の夫欄を指した。

「私の時給がゼロだったのは、あなたが払わなかったから。市場は、きちんと値段を付けてくれた」

倫久がペンを持った瞬間、彼の会社が年間一億円で買った能力を、彼だけが八年間無料だと思い込んでいたことが確定した。