妻を名乗らない木曜日

丹治壽子は毎週木曜日、介護施設へ文庫本を持っていった。

夫の礼蔵は、彼女を見るたび訊いた。

「どちらさまですか」

「妻です」

最初の頃、壽子は必ずそう答えた。

すると礼蔵は鏡を見て、自分の白髪に驚き、二十五歳の妻が行方不明になったと思って泣いた。

「壽子は若いんです。こんなお婆さんじゃない」

説明するたび、彼は六十年の結婚生活を一度に失った顔をした。

二人は見合いで結婚した。

礼蔵は無口で、壽子はよくしゃべった。

新婚旅行では列車を乗り間違え、息子を育て、店を畳み、孫の運動会へ行った。

夫婦喧嘩の終わりには、礼蔵が必ず蜜柑を二つ剥いた。

記憶が薄れてからも、蜜柑の皮だけは長く一本につなげられた。

ある木曜日、壽子は「妻です」と言わなかった。

「本を読みに来た者です」

「そうですか。妻も本が好きでした」

「どんな本を?」

「よくしゃべる本です」

壽子は笑った。

礼蔵も、理由を知らず笑った。

それから彼女は〈木曜の読書係〉になった。

夫は安心して隣へ座り、昔の妻の話をした。

料理は下手だった。笑い声が大きかった。怒ると怖かった。でも、先に死なれたら困るほど好きだった、と。

「奥さまは、今どこに」

壽子が訊くと、礼蔵は窓の外を見た。

「忘れてしまいました。忘れたということだけ、分かるんです」

その答えを聞いた夜、壽子は面会停止願を書いた。

彼女が来る日は、礼蔵が一日じゅう落ち着かず、若い妻を探して廊下を歩き回ると職員から聞いたからだ。

声や笑い方のどこかに、失った人の気配だけを感じるらしい。

最後の木曜日、壽子は蜜柑を二つ持っていった。

礼蔵は皮を一本につなげ、片方を彼女へ渡した。

「あなたは、妻に少し似ています」

「そうですか」

「でも妻のほうが、ずっと若かった」

「それは勝てませんね」

二人は笑った。

壽子は持ってきた本へ栞を挟み、棚へ戻した。

「来週も来ますか」

礼蔵が訊く。

壽子は嘘をついた。

「別の人が来ます。もっと上手に読む人です」

「それは楽しみだ」

彼女は立ち上がり、深く頭を下げた。

夫婦としての別れを告げても、彼には届かない。

だから読書係としてだけ、明るく言った。

「では、お元気で」

玄関を出るまで、壽子は泣かなかった。

翌週、礼蔵は新しいボランティアと穏やかに本を読んだ。

木曜日に誰かを待っていたことも、やがて忘れた。

壽子は家で一人、蜜柑を二つ剥いた。

夫が自分を忘れたのではない。

忘れた夫が安心して暮らせるよう、妻のほうから先に名乗ることをやめたのだった。