姉のための沈黙

琴江は、人に断るのが苦手だ。

母から逃げる前もそうだった。怒鳴られても、給料を取り上げられても、「私が我慢すれば済むから」と笑った。だから新しい町では、私が姉の代わりに断ることにした。

宅配便は私が受け取る。役所からの電話も私が出る。琴江のスマートフォンには、知らない番号を自動で拒否する設定を入れた。交際を申し込んできた同僚には、姉のアカウントから〈今は誰かと親しくなる余裕がありません〉と送った。

本人に見せる必要はない。琴江は傷つきやすいから。会社の飲み会も、体調不良だと私が断った。玄関に置かれた同僚からの菓子折りは、母が仕掛けた物かもしれないので、姉が帰る前に捨てた。

「遥澄、私に電話なかった?」

「ないよ」

「会社の人が、何度かかけたって」

「お母さんが番号を使って探ってるのかも」

そう言うと、琴江はすぐ黙った。母の名は、鍵よりよく効く。沈黙した姉を見るたび、私は自分が必要とされていると安心した。

ある日、姉が小さな紙袋を持って帰ってきた。中には新しいスマートフォンがあり、私の知らない番号が表示されていた。

「会社で契約を手伝ってもらったの」

私は笑顔を作り、古い端末から必要なデータを移すと言った。琴江は首を振った。

「必要なものは、自分で選んだ」

その言い方が母に似ていて、胸が冷たくなった。

翌朝、琴江の部屋は空だった。服も通帳もなく、机には古いスマートフォンだけが残されていた。画面には、私が消したはずのメッセージが復元されていた。

〈琴江さん、返事がなくても待っています〉

〈妹さんから、あなたは退職したと聞きました。本当ですか〉

〈一度だけ、あなた自身の言葉を聞かせてください〉

琴江は全部読んだのだ。

私は会社へ電話した。姉は不安定で、誰かにそそのかされた、と伝えた。受付は個人情報には答えられないと言った。役所も、警察も同じだった。

姉を守れるのは私だけなのに、誰も分かってくれない。

連絡先一覧を開く。ほとんど削除した古い端末に、一件だけ消さなかった番号がある。

母の番号だけは、こういう日のために残してある。