始発便の運転席
午前四時二十分、鳴神蒼生は営業所へ戻り、バスの鍵を所定の箱へ入れた。
昨夜の最終便から三時間しか経っていない。祝部篤臣社長は、運転手の休息不足を「根性の問題」と呼び、点呼簿だけをきれいに書き換えさせていた。
「始発、遅れるなよ」
ソファで寝ていた祝部が片目を開ける。
鳴神は答えず、鍵の横に退職届を置いた。続いて戻ってきた運転手たちも、一人ずつ鍵と封筒を並べた。整備士、点呼係、配車担当。二十四個の鍵が金属音を立てた。全員、担当していた最終便を安全に終え、乗客の忘れ物まで記録してから戻ってきた。無断欠勤ではなく、会社より先に安全を守った結果だった。
「全員で反抗か。免許持ちなんて募集すれば来る」
祝部は笑ったが、始発の予約客は来なかった。学校の校外学習も、温泉旅館の送迎も、前夜のうちに別会社へ振り替えられていた。
営業所の外へ、白いバスが三台停まる。車体には、鳴神たちが出資して作った新しい会社の名前が入っていた。新会社の運転手は全員、法定休息を取った状態で待機し、交代要員までそろえていた。旅行会社の担当者が降りてきて、祝部へ契約終了通知を渡した。
「安全管理責任者が鳴神さんであることを条件に、明日以降はこちらと契約します」
「うちの客を盗んだのか」
「いいえ。こちらが安全を買い直しただけです」
間もなく、地方運輸局と労働基準監督署の職員が営業所へ入った。保存義務のある点呼記録とデジタル運行データを照合するという。改ざんされた紙の時刻と、車載機の時刻は一日も一致しなかった。
祝部の携帯が鳴った。保険会社は契約を停止し、銀行は事業許可の維持を融資条件にしているため、残債を直ちに協議すると告げた。
祝部は鍵箱をつかんだ。
「一台くらい俺が運転する」
鳴神は最後の鍵を指さした。
「社長、その大型二種免許、持っていませんよね」
営業所のシャッターに運行停止の札が掛けられた瞬間、始発を失った会社は、二度と発車できないことが決まった。