婚約者は初対面

「これ、返しに来ました」

眞鍋透子が指輪を差し出すと、浅葱創士は病室のベッドで首をかしげた。

「高そうですね」

「あなたが三十八回払いで買ったんです」

「三十八回。昔の俺、計画性がないな」

「三十六回です。二回は利息」

「もっと嫌いになった」

事故で創士が失ったのは、直近五年間の記憶だった。その五年間に透子と出会い、同棲し、婚約した。彼の中で彼女は、突然現れた不機嫌な知らない女にすぎない。

「婚約破棄の理由を聞いても?」

「婚約した本人がいなくなったから」

「死んでません」

「私を覚えていたあなたは、もういません」

透子は指輪を棚へ置いた。

創士はしばらく眺めてから言った。

「俺たち、仲よかった?」

「悪かったです」

「なぜ婚約を」

「喧嘩の終わらせ方だけは、世界一うまかったから」

創士は笑った。その笑い方が変わっていなくて、透子は腹が立った。

「俺は何をすれば、あなたを怒らせました?」

「濡れたタオルを椅子に置く」

「最悪ですね」

「プリンを勝手に食べる」

「極悪ですね」

「謝るとき、私の好きなカフェラテを買ってくる」

「操作的です」

「でも砂糖の数を一度も間違えなかった」

創士は呼び出しボタンに手を伸ばした。

「売店、行けますか」

「今さら点を稼がないで」

「初対面の人に嫌われたままは困る」

透子は笑いそうになり、唇を噛んだ。そういうところを好きになったのだ。だが、一から思い出を説明し、昔の創士と比べ、いつか戻るかもしれない記憶を待つ自信はなかった。

「指輪は処分してください」

「あなたが持っていけばいい」

「私には、まだ重いから」

「俺には、意味がないから軽いです」

残酷なほど正しい言葉だった。

透子が扉へ向かうと、創士が呼び止めた。

「眞鍋さん」

「何ですか」

「初対面なのに、失恋した気がします」

透子は振り返らなかった。

「それは、身体だけが覚えてるんでしょう」

退院の日、創士は病院前の喫茶店に寄った。なぜかカフェラテを二つ注文し、一方に砂糖を二つ入れた。飲む相手はいないのに、その数だけは迷わなかった。

彼は甘いほうを向かいの席に置いた。

五分待ち、十分待ち、冷めるまで待った。

透子は来なかった。

創士は彼女を覚えていない。

それでも空席を見るたび、二度と会えない誰かを待っている気がした。