字幕を外す夜
【東京 23:00/プラハ 15:00】
鳥居紫乃と宝来慧は、毎週日曜、同じ映画を同時に再生した。
紫乃は映画保存学を学ぶため、プラハへ留学している。慧は東京で映像編集の仕事をしていた。画面の端に互いの顔を置き、三、二、一で再生ボタンを押す。それが一年間、二人のデートだった。
最初の頃、紫乃はチェコ語の台詞が出るたび字幕を追い、慧より少し遅れて笑った。
半年を過ぎると同時に笑うようになった。
十か月目には、紫乃だけが先に笑った。
「字幕、見てないの?」
「もうだいたい分かる」
「すごいな」
「こっちで暮らしてるから」
何気ない返事だった。
けれど慧には、その一言が遠かった。
その夜の映画が終わると、紫乃は二年間の修復研修に誘われたと話した。帰国は来月のはずだった。
「受けたい?」
「うん」
「じゃあ受けなよ」
「慧は、帰ってきてほしいって言わないね」
「言ったら帰るの?」
「たぶん、帰る」
「それが嫌なんだ」
二人とも黙った。
画面の中でエンドロールだけが流れ続ける。
「俺が背中を押して、遠くへ行かせたみたいに思ってた」
慧が言った。
「違うよ。自分で歩いた」
「分かってる。分かってるから、戻せない」
紫乃は泣きながら笑った。
「こっちで新しい言葉を覚えるたび、慧に説明したかった。でも最近は、説明する前に一日が終わる。私の生活に字幕をつけて送るのが、少しずつ苦しくなった」
「俺も、紫乃の話を分かったふりするのが上手くなった」
好きではなくなったわけではない。
ただ、互いの毎日が翻訳を必要とするほど別々になり、その翻訳さえ省く夜が増えていた。
「今日で別れようか」
紫乃が言った。
「うん」
「最後まで、物分かりがいいね」
「今さら悪くなっても、飛行機は引き返さないだろ」
通話を切る前、二人はもう一度、映画の冒頭へ戻した。
今度は字幕を消した。
慧には台詞が分からなかった。
それでも紫乃が笑う場所だけは、まだ分かった。
三、二、一。
二人は同時に再生を押し、別れた恋人として最後の一本を見た。
翌週の日曜、東京の二十三時に慧は一人で映画をつけた。
字幕は戻した。
画面の下に並ぶ日本語は、遠くへ行った彼女が毎週してくれていたことの形に見えた。