存在しない彼女の十年
同窓会の帰り、檜垣朝子は芦名怜司と駅まで歩いた。
十年前と同じ商店街なのに、文房具店は薬局になり、二人が雨宿りした軒先には自動販売機が並んでいた。
「奥さん、迎えに来ないの?」
朝子が訊くと、怜司は立ち止まった。
「結婚してない」
「当時の彼女は?」
「最初からいなかった」
朝子は笑いかけて、やめた。
高校最後の夏、彼女は怜司へ告白した。
怜司は「付き合っている人がいる」と答えた。朝子は町を出て、彼の連絡先を消し、泣いたことまで遠い話にした。
「どういうこと」
「父が会社の金を持って逃げた。母と返済することになって、進学もやめた。何年かかるか分からなかった」
「だから、彼女がいるって?」
「朝子なら待つと言うと思った」
「言ったかもしれない」
「待たせたくなかった」
怜司は、十年分老けた顔でまっすぐ彼女を見た。
「返済は去年終わった。ずっと好きだった。今さらなのは分かってる。でも、もう一度――」
朝子は手を上げて止めた。
「その前に、私の返事を聞いて」
怜司が黙る。
「あの頃の私は、あなたと苦労するかどうかを自分で決めたかった。待つか、諦めるか、怒るか、全部私の人生だった」
「ごめん」
「あなたは優しい嘘で、私から選ぶ権利を取った」
終電の案内が流れた。
怜司は小さく息を吐いた。
「今は、好きな人がいる?」
「いない」
「なら、少しだけでも」
「いないから、あなたを選ぶわけじゃない」
朝子は十年前なら何度でも欲しかった告白を、静かに受け取った。胸は痛んだ。けれどそれは、まだ好きだからではない。好きだった自分が、ようやく本当の別れを聞いた痛みだった。
「私、あなたの嘘を信じて、ちゃんと諦めたの」
「うん」
「だから、諦めた私を今さら嘘にしないで」
改札の前で二人は別れた。
怜司は追ってこなかった。
ホームへ下りる階段で、朝子は一度だけ振り返った。彼は十年前と同じ場所に立っていた。ただ、隣にいるはずだった存在しない恋人の影は、もうなかった。
嘘は消えた。
けれど、その嘘によって過ぎた十年まで、なかったことにはならなかった。