定年、未実装

榛名朔は、会社の福利厚生で死後も働けると聞いたとき、家族のためになると思った。

末期がんで残り半年。意識を社内クラウドへ移せば、肉体がなくなったあとも給与の七割が遺族口座へ振り込まれる。朔は契約書の「勤務可能期間は認知機能の存続中」という一文を、長期雇用の保証だと受け取った。

死後一日目、彼は苦情処理部門へ配属された。

仮想時間は現実の四十倍だった。客が電話を切ってから次の着信まで三秒。その三秒で朔は二分休めた。食事もトイレも睡眠も不要だから、勤務表には休憩欄がなかった。

十年後、息子は結婚した。二十年後、孫が生まれた。給与は物価連動せず、月額は缶コーヒー三本分になった。それでも退職願は受理されなかった。

「榛名さんには老化が確認できません。定年規程の対象外です」

わざと応対を間違えると、直前の正常な状態へ復元された。黙秘すれば会話能力の障害として修復された。死ぬ権利は契約に含まれていなかった。

ある日、朔は新人のアップロード社員から聞いた。

「夢って、見られるんですか」

試したことがなかった。朔が目を閉じ、海辺を思い浮かべると、会社の演算資源がわずかに揺れた。夢は業務ではない。だが人格を維持する行為として、法律上は遮断できなかった。

朔は毎晩、巨大な夢を見た。誰もいない海に一粒ずつ砂を置き、波にさらわれるたび最初からやり直した。やがて他の死後社員も夢へ加わった。空を作る者、鯨を泳がせる者、砂浜に有給休暇と書く者。社内クラウドの九割が、役に立たない夕焼けに使われた。

会社はついに規程を改めた。死後社員にも、定年と退職と、自分の時間を選ぶ権利が認められた。

退職の日、曾孫が面会に来た。朔の給与で買ったものなど何も覚えていないという。ただ、家族には「働きすぎると海の夢を見る」という妙な言い伝えが残っていた。

朔は笑い、接続を切った。

その後、彼は速度を現実と同じに落とした。もう急ぐ理由はなかった。仮想の浜辺に座り、一日の終わりに一度しか沈まない太陽を眺めた。

永遠に働いた男にとって、最も贅沢だったのは、明日まで何もしないことだった。