客室番号の空白

ホテル会員情報の利用許諾会議で、日暮川宗一は予約センターの契約社員として、七千二百人分の顧客リストを前にしていた。買い手は高級不動産会社。宿泊頻度や同伴者構成から、別荘購入の見込み客を抽出するという。

ホテルの営業役員は「会員の九十パーセントが提携先案内に同意済み」と説明した。許諾料は一億円。契約書の対象件数も七千二百件だった。

宗一は同意集計を読み上げた。

「同意者は六千四百七十九人です」

役員は端数を丸めれば九十パーセントだと答えた。確かに六千四百七十九を七千二百で割れば、八十九・九八六パーセントになる。

「率は丸められても、残り七百二十一人は丸められません」

宗一は売却用CSVを開いた。行数は七千二百。不同意者七百二十一人も、削除されずに含まれていた。不同意者だけ客室番号の列が空白だったため、営業役員は個人を特定できないと主張した。

しかし氏名、住所、宿泊日、同伴者人数は残っている。空白なのは客室番号だけだ。宗一は一行を選んだ。それは、ストーカー被害を理由に「部屋番号をいかなる提携先にも出さない」と申し出た宿泊者だった。不同意の申請時刻も記録されている。

営業役員は、客室番号を消した配慮を強調した。

宗一は契約別紙の定義を示した。「対象者=提携案内へ同意した会員」。七千二百という数字の横には法務部の確認印があるが、押印時刻は同意集計が完了する前日の午後五時だった。

買い手企業の役員が、不同意者を除いたデータだけで契約を続けようと提案した。

「除いたファイルを作り直してからです。今の受領証には七千二百件とあります」

買い手が用意した営業メール案には、不同意者の一人の姓と、家族旅行の回数が差し込まれていた。客室番号がなくても、営業先は既に決まっている。宗一がその画面を示すと、買い手側の担当者は「テスト顧客」と言い換えたが、本人のメールアドレスまで実在していた。

宗一が自社の提供確認印をケースへ戻すと、ホテル社長も署名を止めた。客室番号を空白にした七百二十一人が、一億円の決裁欄を埋めさせなかった。