展示室Bの死角
展示室Bから王冠が消えた、と館長は言った。
国立美術館の特別展で、閉館後の映像には一人の男が残っていた。黒い帽子の男は展示台へ近づき、太い柱の陰へ入る。そこが二台の監視カメラの死角だった。三秒後、警報が鳴り、映像が切り替わる。男はどの出口にも映らず、王冠だけがなくなっていた。
私は館長に案内され、同じ廊下を歩いた。正面の避難誘導灯は左を指しているのに、渡された平面図では非常口は右にある。館長は改装前の表示が残っているのだと答えた。
天井を見上げると、白い丸が等間隔に並んでいた。スプリンクラーにしては穴がない。指で触ると、薄い塗料が爪に付いた。
「保存上、水は使えませんから」
館長は説明した。代わりに不活性ガスを噴射する設備だという。
柱の死角を測ると、男が身を隠せる幅はあった。だが、そこから王冠の展示台までは手が届かない。男が三秒で台を開け、王冠を外し、痕跡を残さず消えるのは不可能だった。
警備員は、床下の搬入口を使ったのではないかと言った。館長は否定した。床は一枚岩の大理石で、地下には収蔵庫しかない。
警察犬は柱の裏で匂いを失った。館長は、来場者が多くて追えないのだと説明したが、閉館後に清掃された室内で、男の靴跡だけが一つも見つからないのは不自然だった。警報装置の記録も、王冠の台座ではなく、撮影用の制御盤から発報していた。誰もその機器名を気に留めていなかった。
私は靴底で床を強く擦った。大理石らしい模様の表面が、紙のようにめくれた。柱を叩くと、鈍い石音ではなく、空洞のある板の音がした。
館長の顔から色が消えた。
壁の裏には鉄骨と照明器具が並び、避難誘導灯には電線さえつながっていなかった。ここは美術館ではない。保険会社に提出する展示記録を撮影するため、郊外の倉庫に組まれた実寸セットだった。
王冠は撮影後、輸送用金庫へ戻されたはずだった。ところが、警備員も館長も「展示室Bの密室」に気を取られ、輸送車を調べていない。
私は倉庫の大扉を開けた。外には空の輸送車と、切断された封印があった。
黒い帽子の男が消えた場所を探しても意味はない。彼は最初から、王冠のある場所にはいなかった。
展示室Bから王冠が消えたのではない。展示室Bそのものが、存在しなかった。