左側を歩く二人

駅の構内では、人間は右側、影は左側を歩く。

改札を通る前にいったん離れ、黄色い線からはみ出さないこと。影が他人の影と並んでも、持ち主は呼び戻してはいけない。再び重なれるのは降車駅のホームだけで、終電を逃した影は翌朝まで駅のものになる。

井津木渡は毎晩、同じ二十二時四十一分発に乗った。右側通路を歩く彼の向かいで、影は左側通路を滑っていく。柱に遮られても速度を落とさず、階段では一段も踏まずに斜面を下った。

会社では誰とも揉めなかったし、親しい相手もいなかった。飲み会に誘われれば参加し、二杯目の前に帰る。休日の予定を聞かれると洗濯と答えた。嘘ではない。

三月の終わりから、渡の影は一人の影と並ぶようになった。持ち主は隣の車両に乗る女性だった。ベージュのコート、紺色の靴、左手に細い傘。顔を見る機会は何度もあったが、影のほうが先に親しくなった相手へ声をかけるのは、割り込みのようでためらわれた。

二つの影は改札からホームまで肩を触れさせて進み、電車が来ると別々の車両へ吸い込まれた。降車駅は同じだった。ホームで持ち主へ戻る直前、いつも一度だけ振り返った。

ある夜、女性だけが乗ってこなかった。彼女の影は左側通路に現れ、いつもの位置で渡の影を待っていた。駅員は「本人が欠勤でも影だけ通勤することはあります」と、落とし物の案内と同じ調子で言った。

翌日も、その翌日も女性はいない。影は少しずつ薄くなったが、同じ列車に乗った。渡は車内広告の反射越しに見守った。話しかけられるのは人間だけで、影へ質問することは禁止されている。

七日目、終電間際のホームで、女性の影は電車に乗らなかった。渡の影も黄色い線の手前で止まった。発車ベルが鳴る。持ち主は呼び戻してはいけない。

渡は開いた扉の前に立ち、初めて規則を破らない方法を選んだ。自分も乗らなかった。

終電が出ると、照明が半分消えた。影たちはホームの端へ歩き、ベンチの下で並んだ。渡が右側通路から遠回りして近づくと、ベンチには女性の定期入れが置かれていた。透明窓の中は空で、代わりに二枚の小さな乗車券が重ねてある。

どちらにも、行き先は「左側」と印字されていた。