左袖の縫い目
二十三時五十分。梶浦由弦は地下のコインランドリーで、小鹿野結芽から灰色のパーカーを返された。乾燥機の表示は残り十分。大学時代、結芽が失恋するたび借りて帰った服だった。
二人は一週間前、マッチングアプリで四年ぶりに再会した。結芽の顔写真はなく、左袖だけが写っていた。赤い糸で縫った傷を由弦が覚えていたから、彼女だと分かった。袖を破いたのは、結芽が由弦の就職祝いへ駆けつけ、終電の扉に引っかけた夜だ。彼女は朝までかけて縫い、左右で長さの違う袖を見て笑った。由弦はその不格好さが好きで、新しい服を買っても古い一着だけは捨てなかった。結芽が借りていない季節も、洗濯表示には彼女が使った柔軟剤の匂いが薄く残った。
「右へ押したの、間違いだった?」と結芽が聞く。
「懐かしかっただけ」
「私も。これ返したかったし」
友達だった頃と同じ返し方をした。結芽は笑い、午前零時にアカウントを消すと言った。来月、紹介された人と同棲を始めるらしい。
「うまくいくといいな」
「由弦は、いつもそれだね」
「何が」
「私が誰かを好きになるたび、応援する」
乾燥機が低く回る。由弦は、結芽が泣いた夜だけこの服を貸した。自分の前なら泣けることを、選ばれている証拠だと思っていた。本当は、泣いた後に抱きしめてほしかったのかもしれない。だが、今さら確かめれば、彼女の新しい生活を揺らすだけだ。
結芽は「じゃあね」と階段を上がった。電波が戻り、アプリに未着のメッセージが現れる。送信時刻は二十三時四十八分。
〈最後に一回だけ聞く。友達じゃなくなるなら、この服は返したくない〉
由弦が顔を上げたとき、地上のガラス扉が閉まった。返信欄へ〈返さなくていい〉と打つ。送信ボタンを押した瞬間、画面は〈このユーザーは退会しました〉に変わった。時計は零時一分だった。
パーカーの左袖を裏返すと、赤い縫い目の下に小さく〈ずっと好き〉と刺繍されていた。
由弦は返信の下書きを削除し、灰色のパーカーを衣類回収箱へ押し込んだ。