市役所の封筒は開けない

砥上玲果の前に、二つの封筒が並んでいた。

一つは市役所から届いた採用内定通知。もう一つは、映像制作会社の契約書。父が予約した鰻屋の個室で、祝い膳の横に置かれている。

「先に市役所のほうを開けなさい」

父は箸袋をきっちり二つ折りにした。玲果が高校生のころから、公務員試験の講座を調べ、大学の学部を決め、模試の申込書まで書いた手だ。

「結果はウェブで見た。受かってたよ」

母が息を弾ませた。

「よかった。これで安心ね」

玲果はもう一方の封筒を開いた。契約期間一年、撮影助手。月給は市役所より低く、勤務地も遠い。それでも、大学時代に作った短編映像を見た会社が、面接で仕事内容を三時間も話してくれた。

父は契約書を一瞥した。

「一年後に切られたらどうする」

「そのとき考える」

「考えなくて済む道が目の前にあるだろう」

玲果の席には、子どものころと同じように山椒の小袋が置かれていなかった。父が「辛いものは苦手」と決めて以来、店でも家でも誰も尋ねなかった。玲果は店員を呼び、山椒を一つ頼んだ。

父の眉が動いた。

「映像なんて、休日にやればいい」

「お父さんが選んだ安定を、私の平日にしないで」

祝い膳の空気が冷えた。母が「せっかくのお祝いなんだから」と小さく言う。

玲果は市役所の封筒を父の側へ押した。

「これは開けない。辞退の連絡は今日する」

「後悔しても戻れないぞ」

「戻れる道を残すために、公務員になるわけじゃない」

父は何か言い返しかけ、箸を置いた。玲果は契約書の署名欄に自分の名前を書いた。保証人欄はない。成人した自分だけで結べる契約だった。

食事が終わるころ、父が低い声で尋ねた。

「撮影って、朝は早いのか」

賛成ではなかった。だが説得でもなかった。

玲果は「早い日もある」とだけ答えた。父に安心を約束しない代わりに、事実だけは渡した。

帰り際、市役所の封筒は父が持とうとした。玲果は自分で鞄へ入れた。辞退するのも、捨てるのも、自分の手で済ませるためだった。