帰らないための帰郷届

市役所の移住相談窓口でもらった申込書には、丸をつける欄が二つあった。

「定住を希望する」

「お試し滞在を希望する」

菜摘は駅前の喫茶店で、ペン先を二つの丸のあいだに浮かせていた。

二十九歳になってから、「そろそろ」が増えた。そろそろ落ち着く。そろそろ根を張る。誰も命令していないのに、その言葉だけが先に年を取っていく。

故郷の商店街は、十年前より短くなった気がした。閉じたシャッターが増えたからだ。けれど、角の時計店はまだ正午に鳥の仕掛けを鳴らし、喫茶店の水には薄いレモンが浮いていた。懐かしさは、戻る理由にも、戻らない理由にもなった。

スマートフォンには二件のメッセージがある。

東京の友人から、〈来月もいつもの店で〉

地元の同級生から、〈空いてる部屋、見に行く?〉

どちらも菜摘の人生を決めるほど強くない。だからこそ、決めるのは自分だった。

定住に丸をつければ、迷いが終わるように思えた。お試し滞在では、逃げ道を残すみたいで格好が悪い。二十九歳なら、もっと潔く選ぶべきだと、誰かの声がした。

菜摘はペンを置き、窓の外を見た。高校生が二人、自転車を押しながら笑っている。自分もかつて、ここを出れば本当の人生が始まると思っていた。今度は、ここへ戻れば本当の人生が始まると思いかけている。

場所に開始ボタンを押してもらおうとしていた。

窓口でもらったパンフレットには、移住者の笑顔が並んでいた。畑を始めた人、古い家を直した人、犬と川辺を歩く人。菜摘はそのどれにもなりたくなかったし、なれる気もしなかった。町へ戻るだけで物語の主人公になる必要はない。朝寝坊し、スーパーの惣菜を買い、知らない道で迷う一か月でもいい。

菜摘は「お試し滞在」に丸をつけた。期間の欄には、最短の三か月と書いた。

戻ると決めたわけではない。帰らないと決めたわけでもない。ただ三か月、自分の目で今の町を見る。そのあと東京を選ぶなら、故郷を言い訳にしない。

申込書を窓口へ出すと、担当者は「短くても大丈夫ですよ」と言った。

菜摘はうなずいた。

三か月後にまた迷う権利ごと、今日の選択として受け取った。