帰宅後の青い椅子
一人で住む部屋には、契約上二脚の椅子を置く。
二脚目は管理会社が貸し出す青い椅子で、玄関に背を向けてはいけない。帰宅した住人は、部屋で最初に発する一文をその椅子へ聞かせる。午前零時になると、椅子は住人が帰りを待っている相手の方角へ向く。同じ方角を七晩示したら、緊急連絡先をその相手に更新する。誰も待っていない場合だけ、椅子は住人自身を向く。
守随の部屋には、ダイニングチェアと青い椅子が一脚ずつあった。
半年前までは恋人と暮らしていた。別れた朝、彼女は服と食器と白い椅子を持っていった。青い椅子は「単身契約の備品だから」と残された。合鍵は返さず、郵便受けに入れておくと言ったきりだった。
守随は毎晩、青い椅子に「ただいま」と言った。電子レンジが止まるまでの間、仕事の愚痴を一つだけ続けることもあった。椅子は聞いているのか、雨の日には背もたれの青が少し濃くなった。零時になると、椅子は北西を向いた。彼女が移った町の方角だと思った。七晩ごとに管理会社のサイトを開き、緊急連絡先の欄へ彼女の番号を入れ直した。番号が解約されても、方角は変わらなかった。
同僚は新しい連絡先を登録しろと言った。母は自分の番号を使えと言った。守随は断った。椅子は規則を間違えない。彼女がどこかで帰ろうとしているなら、待つことだけは裏切りたくなかった。
ある夜、郵便受けに茶色い封筒があった。中には合鍵と、転送期限が切れた通知が一枚。差出人欄には、知らない名字が印刷されていた。封筒の隅には、二人で買った家具店のポイントカードが半分に切られ、透明なテープで貼られていた。
部屋へ入った守随は、いつもの言葉を飲み込んだ。青い椅子は玄関の前で、北西を向いたまま待っている。
「今日は、俺が帰ってきた」
それを最初の一文にした。
零時、椅子は音もなく回り、守随を正面から見た。彼は床へ座り、初めて椅子と向かい合った。青い座面には何も載せてはいけないので、返された鍵は自分の膝へ置いた。
朝になると、青い椅子の下にもう一本の鍵が落ちていた。二本とも手元にあるはずなのに、それは温かく、金属の札には守随の部屋番号が新しい傷で刻まれていた。