帰港を約束しない
【退職六日目】
海堂龍一、六十二歳。
三十七年前に諦めた単独世界航海へ出ると宣言。
妻・戸川眞知子は「知っていました」と回答。
【出航三か月前】
龍一は庭で救命いかだを点検した。
眞知子は縁側で離婚届を書いた。
「冗談だろ」
「あなたの航海より本気です」
「帰るまで待ってくれ」
「三十七年、待ちました」
若い頃、龍一は世界を一周するために船を買うと言った。だが結婚し、子どもが生まれ、親を介護し、会社を定年まで勤めた。
眞知子は夢を諦めた彼を責めなかった。
ただ、台風の夜や仕事に疲れた日、彼が窓の外を見るたび、自分たちの暮らしが夢を奪った岸のように思えた。
「航海へ行くなとは言ってない」
「じゃあ、なぜ別れる」
「妻のままなら、毎朝あなたの位置を確認して、嵐のたびに眠れず、帰港予定日から一日遅れるたび、夢なんか追わせなければよかったと思う」
「心配させて悪い」
「謝らないで。私はもう、あなたの夢の監視員をしたくないの」
龍一はペンを持たなかった。
眞知子は続けた。
「私は来月から、夜間の美術学校へ通う。あなたが海を見ていた三十七年、私は食卓の下で絵を描いてた」
「知らなかった」
「見せなかったから。あなたの夢だけが大きい家にしたのは、私でもある」
【出航前日】
二人は離婚届を提出した。
帰宅後、いつもどおり鯖を焼き、味噌汁を飲んだ。
最後の夜にふさわしい言葉は見つからず、龍一は焦げた皮を眞知子の皿へ移した。
「帰ってきたら、会えるか」
「帰ることを、私との約束にしないで」
「無事を祈ってくれる?」
「祈らない。祈り始めたら、また待ってしまう」
【出航当日】
港に眞知子の姿はなかった。
操舵席には、小さな絵が一枚置かれていた。
荒れた海ではなく、水平線の向こうへ続く白い道。その隅に、こう書かれていた。
〈行ってらっしゃい。さようなら〉
龍一は紙を航海日誌の第一頁へ挟んだ。
十一か月後、彼は世界を回って帰港した。
迎えの群衆の中に眞知子はいなかった。
その頃、彼女は初めての個展で、自分の絵の前に立っていた。
二人は同じ日に、長く追えなかった夢へたどり着いた。
そこに相手はいなかった。
だからこそ、どちらの夢も、別れの代償ではなく、自分で選んだ人生になった。