引っ越し箱の余白

 引っ越し業者が来るまで、あと二十分だった。

 栞奈は伊吹の部屋で、最後の段ボールにガムテープを貼っていた。床に残ったのは、充電器とマグカップと、三年前に彼へ預けた合鍵だけだ。

「これ、返す」

 伊吹が鍵を差し出す。

「持ってていいのに」

「もう隣の駅じゃない。何かあっても間に合わない」

 三年前、栞奈は仕事中に倒れた。退院後もしばらく眠れず、深夜に電話すると伊吹が来た。冷蔵庫を満たし、薬の時間を付箋に書き、何も聞かずに帰った。

 それから栞奈は、彼を好きだと思うたびに言い直してきた。これは感謝だ。弱っていたから勘違いしただけだ、と。

「本当に助かったよ」

「それ、何回目?」

「何回でも言う。助かった」

「俺、栞奈を助けるために友達やってたわけじゃないんだけど」

 カッターを持つ手が止まった。部屋にはもうカーテンがなく、午後の光が白すぎた。逃げ場のない明るさだった。

「じゃあ、何のため?」

「用がなくても呼ばれたかった」

「それは……友達なら普通でしょ」

「またそれ」

 トラックの到着を知らせる電話が鳴る。伊吹は出ずに、画面を伏せた。

「新居、遠いっていっても四十分だよ」

「知ってる」

「来る理由がない?」

「理由があったら行く」

「理由がないと来ない?」

 栞奈は、返された合鍵を握った。金属の角が手のひらに食い込む。

 好きだと言えば、三年前からの全部が病気の延長に見える気がした。彼の親切に恋愛で代金を払うようで、それだけは嫌だった。

「私、伊吹がいたから助かった」

「うん」

「違うな」

 栞奈は鍵をテーブルへ置いた。

「助かったんじゃなくて、いてほしくなった。元気になったあとも」

 外でトラックがバックする警告音を鳴らした。

 伊吹は何も答えず、荷物の中から〈自分で運ぶ〉と書かれた小さな箱を持ち上げる。栞奈はその底へ手を添えた。

「重いよ」

「半分なら持てる」

 二人で玄関を出る。返された合鍵はテーブルに残したままだった。

 栞奈は途中で戻らなかった。新しい部屋まで、その箱を一緒に運ぶつもりだった。