弾倉に一発もない
分断都市のホテル四〇八号室で、鵙目千珠と南雲瓏一は互いに拳銃を向けた。
千珠は東部情報局、瓏一は西部外務調査室。
停戦中の五年間、二人は記者と通訳を名乗って同じ外交団へ潜り込み、それぞれ相手を協力者にするよう命じられていた。
最初の接吻は任務だった。
二度目からは、どちらの報告書にも書かなかった。
停戦が破棄される前夜、両組織は同じ命令を出した。
相手が抱える潜入者名簿を奪い、必要なら排除せよ。
「撃つ?」
千珠が訊いた。
「君からどうぞ」
「昔から譲るふりが下手ね」
瓏一が弾倉を抜いて床へ置いた。
空だった。
千珠も自分の弾倉を外した。こちらにも一発もない。
二人は笑った。
逃げる準備は、どちらもしていなかった。
千珠が東へ戻らなければ、彼女が管理する若い連絡員たちが二重工作員として疑われる。
瓏一が西へ帰らなければ、国境内に残した協力者の家族が報復を受ける。
二人だけが自由になる逃亡は、背後に何十人もの名前を置き去りにすることだった。
机の上に、偽造旅券が二冊あった。
昨日までなら、それで南の国へ行けた。
「一緒に逃げたいと言って」
千珠が言う。
「言えば、来る?」
「行かない」
「俺もだ」
瓏一は旅券を灰皿で燃やした。
千珠は二人が使った暗号帳を一頁ずつ裂いた。
「報告書には何と書く?」
「対象との接触に成果なし」
「五年間も?」
「君は頑固だった」
「あなたは無能だった」
冗談が途切れると、部屋には遠い警報だけが残った。
夜明け前、二人は最後に抱き合った。
任務で覚えた癖なのか、本当に好きだからなのか、もう分けられなかった。
千珠は東の階段へ、瓏一は西の非常口へ向かった。
扉の前で彼が言った。
「次に会ったら、敵だ」
「最初から敵よ」
「そうだったな」
停戦破棄後、両組織の記録には、二人の関係を示す文書は一枚も残らなかった。
ただホテル四〇八号室の床から、空の弾倉が二つ見つかった。
撃てなかった証拠ではない。
撃たないことだけを、最後に二人で選んだ証拠だった。