急がないワルツ
早瀬果歩の結婚式は、三か月後に決まっていた。
式場も指輪も新居も、彼と彼の母が手際よく決めた。果歩が選んだのは招待状の紙色だけだ。試着室で鏡を見るたび、ドレスではなく、うなずく自分の顔ばかりが気になった。それでも不満だと言えば、贅沢に聞こえる気がした。だから今夜も、衣装合わせの日程確認に「大丈夫」と返す前に、駅裏の「蓄音室コメット」へ逃げ込んだ。
棚の端に、厚い黒色のSP盤が一枚あった。紙のラベルには、金文字で『急がないワルツ』。端には小さく「七十八回転」とある。曲名が妙で、果歩は試聴を頼んだ。
店主はいつものプレーヤーを使わなかった。棚下から蓄音機を出し、太い針を新しいものへ替える。ぜんまいを巻き、回転計の針が七十八に落ち着くまで、手を離して待った。盤が回り始めても、すぐには針を下ろさない。速度の揺れが消えてから、ようやく音溝へ置いた。
古いワルツは、遅かった。踊るには一拍ずつ確かめなければならないほど遅く、けれど遅いからこそ、次の足をどこへ置くか分かった。
果歩のスマートフォンが震えた。
《明日の衣装合わせ、母さんも来るって》
続いて、
《返事ちょうだい》
いつもなら「了解」と打つ指が止まる。
曲が終わると、店主は針を外し、盤が自然に止まるまでぜんまいを緩めなかった。会計では、割れ物用の段ボールを二枚重ね、紐を十字にかける。一度結んだあと、きつすぎたのか、結び目をほどいて少しだけ余裕を作った。
「持ち帰るまで、急がないほうが安全です」
品物についての言葉だった。果歩はうなずいた。
彼との結婚をやめたいわけではない。ただ、自分がいないまま進む式を止めたかった。延期を頼めば、面倒な人だと思われるかもしれない。それでも、面倒を避けたまま夫婦になるほうが怖かった。果歩はメッセージ欄に、初めて「大丈夫」以外の文を打つ。
《明日の衣装合わせは延期したい。式の日程も、二人で決め直したい。今夜、話せる?》
送信すると、青い吹き出しが画面に現れた。返事はまだ来ない。
果歩は紐に指を通し、急がないワルツを、自分の歩幅で持ち上げた。