息をしないソプラノ

 戸無瀬糸が合唱部へ入った初日、先輩から一つだけ忠告された。

「録音を聴くとき、声の数を数えないで」

 音楽室には、創部以来の演奏を収めたディスクが並んでいた。毎年、卒業演奏会で同じ曲《冬の舟》を歌う。

 糸は去年の録音を聴いた。

 部員は二十八人だったはずなのに、二十九人目のソプラノがいる。細く高い声で、二小節目から最後まで一度も息を継がない。

「編集で重ねたんですか」

 顧問は再生を止めた。

「古い録音は、聞き間違いが多いの」

 それから糸は、過去の演奏を年代順に聴いた。

 どの年にも、一人だけ息をしない歌声がある。

 昭和の録音では、音楽室の火事で亡くなった部長。

 十年前の録音では、演奏会の翌月に病死した一年生。

 去年の声は、卒業式の朝に駅で事故に遭った先輩のものだった。

 全員、録音した時点では生きていた。

 ただし、名簿には声が残った年の次から名前がない。

 糸は自分の呼吸音に特徴があった。

 幼いころ喉を手術したため、息を吸うたび小さく笛のような音がする。

 冬の録音日、糸は怖くなり、二小節目で歌うのをやめた。咳をするふりをして音楽室を出た。

 翌日、顧問が完成音源を流した。

 二小節目から、息をしないソプラノが加わった。

 その声は、息を吸わないのに、かすかな笛の音だけを伴っている。

 糸の音だった。

 けれど録音中、彼女は一度もその息を吸っていない。

「私は途中で出ました」

「録音には残ったでしょう」

 顧問は当然のように答えた。

 保管棚には、まだ録音していない来年度のディスクが置かれていた。糸は誰もいないときに再生した。

 最初に、新入部員の点呼が入っている。

 二十七人の名前が呼ばれ、全員が返事をした。

 糸の名は呼ばれなかった。

 代わりに顧問が言った。

『今年も《冬の舟》を歌います。昨年残ってくれた戸無瀬さんの声に合わせてください』

 歌が始まる。

 息をしない糸の声が、空席の場所から聞こえた。

 ディスクのラベルには、来年三月の日付と、その三日前の日付が小さく印字されていた。

〈戸無瀬糸 告別式〉