振袖の裁ち目
依織の母は、押し入れの湿気まで電話に乗せてきた。
「振袖、今年も保管料がかかるの。買い取りに出す? それとも、こっちで持っておく?」
二十九歳の依織は、受話口を肩に挟んだまま、メールに添付された二枚の見積書を開いた。一枚は買い取り店。金額は思ったより低い。もう一枚は仕立て直しの工房。振袖を切り、短い羽織と小さな巾着にする費用は、買い取り額の三倍だった。
成人式の写真では、依織は赤い袖に半分埋もれている。母が選び、祖母が払った着物だった。いつか正式な席で着られる、と誰もが言った。その「いつか」が何を指すのか、依織だけが聞かないふりをしてきた。
売れば押し入れも気持ちも軽くなる。残せば、まだ起きていない晴れの日を待てる。どちらも、他人が理解しやすい選択だった。
「切ってもいい?」
母の息が止まった。
「元には戻らないよ」
「うん。戻らない形にしたい」
工房の案内には、裁断後のキャンセルはできません、と赤字で書かれていた。依織はその一文を何度も読んだ。袖を切ることは、過去を捨てることでも、未来を諦めることでもない。ただ、飾って待つ時間を終わらせることだった。
母は最後まで賛成しなかった。それでも箱を送るとは言った。
電話のあと、依織は二枚の見積書のうち、工房の申込書を印刷した。用途の欄に「普段着」と書き、少し考えて「雨の日にも着る」と付け足した。
署名してから、成人式の写真を見た。長い袖は美しかった。切られるのが惜しいと、今も思う。
依織はその惜しさごと封筒に入れた。自分で選んだ裁ち目なら、ほどけないことまで引き受けようと思った。
一か月後、工房から裁断直前の確認写真が届いた。赤い布の上に白い線が引かれ、家紋のすぐそばを通っていた。依織は線をずらしてもらうこともできたが、「このままで」と返信した。完成した羽織を初めて着た日は雨で、袖口に小さな泥はねがついた。母に写真を送ると、惜しいことしたね、と返ってきた。依織は汚れを拭かずにしばらく眺めた。飾る未来を切った布に、今日の染みが増えることを、ようやく嬉しいと思えた。