捨てられない名簿
大聖堂の鐘が崩れ落ちる中、真鍋イオリは銀色の名簿を抱えて走っていた。
《接続者名簿》
分類:重要アイテム
効果:なし
備考:捨てられない。空欄がある限り、セッションを終了できない。
ログアウト不能事件が起きてから、この名簿はイオリの所持枠を一つ塞ぎ続けている。頁には閉じ込められたプレイヤー全員の名前が並び、救出されるたび金色に変わった。だが最終ページだけが空白のままだ。
「ボスを倒せば埋まる!」
レイド長が叫び、祭壇の管理天使へ斬りかかる。天使のHPは残り一割。イオリも短剣を抜いたが、名簿が胸元で熱を持った。
空欄の下に、小さな注意書きがある。
《表示名ではなく、接続時に登録された名を記載してください》
プレイヤー名なら全員分ある。では、登録された名とは何か。
天使が翼を広げ、範囲攻撃の光が迫る。イオリは柱の陰へ転がり、名簿を開いた。最初の頁には、現実の本名とアバター名が二段で記されている。だが自分の欄だけ、アバター名《IORI》しかない。
ログイン初日、個人情報を嫌って偽名を入力した。適当な文字列で通ったから、そのまま忘れていた。
「俺が、空欄だったのか」
イオリはペンを取る。現実の名字も名前も、三年ぶりに書くと他人のもののようだった。最後の一画を引いた瞬間、管理天使が攻撃を止める。
レイド長の剣が天使の胸へ届く寸前で、名簿から鎖が伸び、刃を絡め取った。
空欄は金色に埋まった。そこにはイオリの名だけでなく、名簿を持って逃げ続けた時間、助けた者、見捨てた者、全部が細い文字で記録されている。
天使は敵ではなかった。欠けた一人を世界の外へ送れば、残った全員の記録が壊れるため、出口を閉じていた管理者だった。
イオリが名簿を祭壇へ置くと、頁が一枚ずつ光になり、空へ昇る。
金色になった頁から、すでに帰還した者たちの声が微かに聞こえた。名簿は監獄の鎖ではなく、途中で一人も取り落とさないための点呼だった。イオリが偽名のままでは、世界の外で誰の身体へ戻せばよいか分からなかったのだ。
《接続者名簿が完成しました》
《未登録者:0》
《ログアウト不能状態を解除します――本機能は全員の帰還先が確認できるまで、一人も失わないための保留処理でした》