改札を越える雨
「駅までなら、入れて」
宮阪楓がそう言うと、藍原旭は黙って傘を傾けた。
楓の引っ越し荷物は、午前中にすべて新潟へ向かった。東京に残ったのは小さなキャリーケースと、鍵を返し終えた部屋の記憶だけ。明日からは支店勤務で、旭とは三百キロ離れる。
二人は大学時代からの友人だった。近所に住み、金曜の夜は一緒に食べ、体調を崩せば薬を届ける。それでも恋人にならなかったのは、どちらかが転勤する可能性を知っていたからだ。始めなければ、離れても失わずに済む。
春の雨は細かく、相合傘の内側まで冷たかった。駅前の桜はほとんど散り、濡れた花びらが二人の靴の間へ貼りついた。来年は同じ場所で見られないと、楓はそこで初めて実感した。
「向こうでも、ちゃんと食べろよ」
「旭こそ。コンビニで夕飯を済ませないで」
「連絡する」
「友達として?」
「……そういう確認、今日する?」
旭が困ったように笑い、楓も笑った。駅までの十分を重くしたくなくて、二人はまた冗談へ逃げた。
改札前に着く。楓が傘から出ようとすると、旭の手がキャリーケースの持ち手を先に取った。
「ここまででいいよ」
「切符、買ってある」
旭が見せたのは入場券ではなく、楓と同じ列車の指定席だった。
「仕事は?」
「明日の朝、向こうから戻る。荷ほどきくらい手伝える」
「そこまでしなくても」
「来月のも取った」
予約一覧には、一か月後の土曜、新潟行きの往復が並んでいた。さらに翌月、その次の月まで、同じ時間の列車が仮押さえされている。
告白の言葉はなかった。ただ、距離を言い訳にしないための切符だけがあった。
楓は旭のスマホを受け取り、予定の件名《宮阪引っ越し手伝い》を削除した。《楓に会いに行く》と打ち直し、参加者に自分を加える。
「勝手に変えた」
「そのほうが正確」
旭が傘を閉じ、キャリーケースを引く。楓は空いた彼の手を取った。改札機の前で一度ほどけかけた指を、今度は自分から絡め直す。
「旭」
初めて名字を使わず呼ぶと、彼の歩幅が止まった。
「駅までなら、って言ったよな」
「うん」
楓は二人分の切符を握り、改札の向こうへ彼を引いた。
「だから今度は、新しい駅まで入れて」
駅までの相合傘だったはずが、その雨は改札を越え、次に会う日まで続いていった。