旧姓のままの搭乗券
葉室朱里の搭乗券には、離婚前の名字が印字されていた。
会社が半年前の出張履歴を複製して予約したせいだ。身分証と一致しないため、空港カウンターで変更が必要になった。受付終了まで十一分。隣では同僚の鞍馬周平が、二人分のスーツケースを見張っていた。
朱里は二十六で結婚し、二十八で名字を戻した。銀行、免許証、保険、社員証。自分を自分に戻すだけで、三か月かかった。周平と食事をするようになって一年になるが、好きとは言えない。
彼は冗談めかして、「次は名字を変えなくていい相手にしなよ」と言う。そのたび笑って流した。次があると仮定されることも、結婚の形まで先回りされることも怖かった。恋を始めれば、また書類の束が待っているように思えた。
周平は朱里を旧姓で呼んだことは一度もない。離婚届を出した日のことも、理由も、聞かれるまで尋ねなかった。だから彼の冗談に悪意がないことは分かっていた。分かっている相手ほど、嫌だったと伝えるのは難しい。冗談一つで関係を壊す神経質な人だと思われそうだった。
係員が端末を操作しながら尋ねた。
「現在のお名前は、葉室朱里様でお間違いないですか」
「はい」
周平が小さく言った。
「名前なんて関係ないのに、大変だな」
朱里は黙った。係員が確認のため席を外し、カウンター前に二人だけが残った。出発便の最終案内が流れる。
「朱里、怒った?」
「名前なんて関係ないって、前にも言ったよね」
「悪かった」
「関係あるよ。私には」
短い会話なのに、喉が乾いた。
「もう誰かの名字になりたくない。だから、好きになった先に結婚が置いてあるみたいに言われると、何も言えなくなる」
周平は言い訳をしなかった。朱里の古い搭乗券を裏返し、ペンで何か書いた。
『葉室朱里のままで会う』
「俺が欲しいのは名字じゃない。次とか結婚とか、勝手に近道を作らない。名前は関係ない、じゃなくて、朱里の名前を大事にする」
係員が新しい搭乗券を差し出した。現在の名字が、黒い文字でまっすぐ印字されている。
保安検査場の締切まで四分。朱里は旅行保険の緊急連絡先欄を開いた。空欄だったそこへ、鞍馬周平、続柄は友人、と入力する。
保存を押してから、古い搭乗券だけを小さく破った。