明日の失くし物帳

終着駅の忘れ物係には、古い革表紙の帳面があった。

毎晩零時になると、翌日この駅で最初に失くされる物の名が一つだけ浮かぶ。

「紺の手袋」

「白い杖」

「鍵の束」

係員は始業前に心当たりの場所を見回し、落とし主より先に見つけることが多かった。

感謝されても、予知のことは言わない。

ただ仕事が丁寧な人だと思われていた。

春の夜、帳面に見慣れない文字が浮かんだ。

「帰る勇気」

物ではない。

翌朝、係員は改札もホームも普段より注意して見た。

昼を過ぎても何も起きない。

夕方、一人の学生が券売機の前に立ち続けていた。

制服の鞄と、大きな旅行鞄。

切符を買っては取り消し、母親らしい相手からの着信を何度も切っている。

係員が声をかけると、

「財布はあります」

と先に答えた。

「忘れ物ではなく、失くし物を探しています」

そう言うと、学生は不審そうに顔を上げた。

試験に落ちたことを言えず、家へ帰れないという。

合格すると約束し、家族も近所も応援してくれた。

落ちた自分が玄関へ立てば、皆の期待まで壊れる気がした。

係員は励まさなかった。

自分も若い頃、家業を継ぐ約束から逃げ、父の葬儀まで帰れなかったことを話した。

「帰らなかった時間は、失敗より重くなりました」

学生は泣かなかった。

「帰ったら怒られます」

「たぶん」

「がっかりされます」

「それも、たぶん」

「じゃあ何で」

「失くしたままにすると、誰かが拾ってくれる物ではないからです」

学生は旅行鞄を預け、ホームのベンチで母親へ電話した。

最初の言葉は聞こえなかった。

やがて、

「今から帰る」

という声だけが、構内放送の切れ目に届いた。

翌朝、忘れ物係が帳面を開くと、「帰る勇気」の文字は消えていた。

代わりに小さな切符が一枚挟まっていた。

昨日の学生が使った乗車券だった。

裏に、

「怒られました。夕飯はありました」

と書かれている。

係員は切符を遺失物として扱わず、自分の机へしまった。

帳面はその後も、傘や鍵を予告した。

物でない失くし物は、二度と現れなかった。

けれど改札前で立ち止まる人を見かけると、係員はすぐ拾おうとせず、まず隣へ立つ。

帰る勇気は、落ちた場所ではなく、誰かと一緒に次の一歩を出す場所で見つかるからだ。