明日を嘘にする指輪
婚礼の鐘が三度鳴り、オブリシアは黒い指輪へ口づけた。
祭壇の向こうで、花婿テレムが微笑んでいる。その影だけが、角のある頭を持っていた。参列者は香に眠らされ、扉には内側から鎖が掛かっている。誓いが終われば、影の悪魔は百人の名を婚姻簿へ縫い込み、全員を眷属にする。
指輪に棲む「環の客」が囁いた。
――嘘を一つ現実にするたび、おまえがこれから得るはずだった幸福な記憶を一つ、先に食べる。
失うのは過去ではない。まだ抱いていない子、まだ見ていない老いた顔、まだ交わしていない朝の挨拶。消えたことさえ、今の自分には確かめられない。
司式者が誓詞を開いた。
オブリシアは言った。
「扉は開いています」
鎖が砕け、扉が風に押し開かれた。指輪の内側で、幼い笑い声が一つ消えた。誰の声だったのかは分からない。
テレムの影が伸び、短剣を握る。
「その手に刃物はありません」
短剣が花びらへ変わる。代わりに、白髪のテレムと並んで暖炉を見る記憶が、存在する前に焼けた。
「皆、目を覚ましています」
客たちが一斉に息を吸う。祭壇の布が剥がれ、下に描かれた血の紋が露出した。指輪は、雨の日に二人で笑うはずだった記憶を飲み込む。
悪魔がテレムの口を使って怒鳴った。
「おまえはこの男を愛している。だから私は入れた。愛がある限り、私を追い出せない」
テレムの本当の瞳が、影の奥で泣いていた。
オブリシアは最後の嘘を選んだ。
「私は、あなたを愛したことがない」
指輪が食い込む。未来だけでなく、過去の温度まで一息に冷えた。
現実が嘘へ従った。
二人を結んでいた愛が最初から存在しなかったことになり、そこを通っていた悪魔は足場を失った。影が裂け、角の頭が悲鳴を上げて婚姻簿へ吸い込まれる。参列者たちが紋を踏み消し、テレムは祭壇の前へ倒れた。
やがて彼は目を開き、オブリシアの手を握った。
「君の声を聞けば分かる。助けてくれたんだな」
彼女はその顔を知っていた。出会った日も、求婚の日も説明できた。だが胸には何も起こらない。指輪を抜こうとすると、薬指は根元まで黒い金属へ変わり、輪と一つになっていた。
「オブリシア?」
呼ばれた名は正しい。それでも彼女には、誰か別の女の名のように聞こえた。
祭壇の足元で、存在しなかった未来の花びらだけが、音もなく積もっていた。