最上階スイートの退出時刻
天空旅館《雲環楼》の最上階で、バルドゥン侯爵は青磁の花瓶を杖で叩き割った。
「侍女ミレイアが落とした。宿泊費は免除しろ。花瓶代はこいつの給金から引け」
破片の前で、ミレイアは一礼した。
「事故報告へご署名をお願いいたします」
「平民の分際で手間を取らせるな」
侯爵は〈入室時から侍女の手が震え、花瓶を落とした〉と書き殴り、家紋印まで押した。彼の従者たちは笑っている。
「では、客室鍵をご返却ください」
ミレイアが差し出した銀盆へ、侯爵は月長石の鍵を投げた。
鍵が澄んだ声で告げる。
『二十三時四分、宿泊者バルドゥン発言――この花瓶を割れば、今夜もただで泊まれる』
笑いが止まった。
雲環楼の鍵は扉を開けるだけではない。最上階の調度を守るため、破損音の前後一分を保存する。その規約は、侯爵が到着時に「細字など読む価値もない」と言いながら署名した宿泊契約の第三条にあった。
鍵は続けた。
『二十三時五分、宿泊者バルドゥン発言――侍女がやったことにしろ。逆らえば家族ごと鉱山送りだ』
廊下に控えていた侍女たちが顔を上げた。これまで割れた皿や汚された絨毯を弁償させられた者たちだ。今夜は誰も侯爵へ頭を下げない。
「偽物だ!」
侯爵は鍵を奪おうとしたが、月長石は彼の家紋印を空中へ投影した。事故報告の印と完全に一致する。
ミレイアは破片を拾わなかった。代わりに、窓辺の時計を指した。
「ご退出時刻は二十三時十分です」
「誰に向かって言っている! この楼の株主は私だぞ」
「昨日まで、でございます」
扉が開き、雲環楼の総支配人と王室監査官が入った。侯爵が従業員へ損害を転嫁し、無料宿泊を繰り返していたため、今夜は監査室が鍵の記録を同時受信していたのだ。
監査官は侯爵自身が押した二枚の書類を重ねた。
「虚偽申告と脅迫の証拠は、閣下ご本人が完成させました」
廊下に衛兵の靴音が並ぶ。
総支配人が封書を開き、はっきり読み上げた。
「バルドゥン侯爵に、雲環楼の全持分剥奪および王都拘束命令を通知する」